2019-12-07から1日間の記事一覧

200-25-15 遣唐船の航路

25-15 遣唐船の航路 2006/10/25(水) 第1回の遣唐使の派遣は630年、大使は犬上御田鍬。ちなみにこの大使は、614年の遣隋使の大使でもある。遣唐使の航路としては、一般的に北路、南島路、南路の三種類があるとされている。 北路は、初期に用いられた航路で、…

22-12 ヒノキ(桧)と松

22-12 ヒノキ(桧)と松 2006/10/26(木) わが国ではヒノキ(桧)が珍重されてきた。木彫の仏像の素材や寺院の建築にはヒノキが用いられてきた。ところが韓国の建築用材は赤松が中心である。この違いはどこから生じたのだろうか。広隆寺の弥勒菩薩像が赤松で…

25-27 拙速

25-27 拙速 2006/12/6(水) 午前 7:07 --25 仏教と日本文化 歴史 facebookでシェア twitterでつぶやく 地元のある禅寺の住職さんのお話を聞いたことがある。そのとき印象に残ったのが、「拙速を尊ぶ」という言葉である。とりあえず先ずやりなさい、というより…

00-03 「めからうろこ」の典拠

00-03 「目からうろこ」の出典 2007/1/19(金) 先日、偶然に「目からうろこが落ちる」の出典を知ることになった。聖書である。パウロがキリスト教の信者になるきっかけがこの事件であった。聖書の該当箇所は以下に引用する。 使徒言行録 第9章1節―19節a 9:1 …

200-00-04 「目からうろこ」2

00-04 「目からうろこ」 2 2007/1/22(月) 密教とは「秘密仏教」のことであるという。この「秘密」の意味についてこんな説明を読んだことがある。密教の側は何も「秘密」にしてはいない、密教に接する人間の側が偏見や先入観に囚われて物事をあるがままに見…

00-05 「仏教書」散策

00-05 「仏教書」散策 2007/1/26(金) やはり「目からうろこ」はテーマからはずすことにした。ところで「散策」というのはどのような意味か。このブログの柱の一つがトルファン、敦煌、西安への旅行の紀行文であり、仏教の史跡を散策するという意味があること…

ささやかな異文化体験 1

ささやかな異文化体験1 2007/5/12(土) 他国の文化を理解するというのは大変なことである。さやかな体験をいくつか披露したい。 1.スープの飲み方 スープは音を立てて飲んではいけない。これは私たち団塊の世代が西洋料理に関して最初に学んだマナーであろ…

ささやかな異文化体験 2

ささやかな異文化体験2 2007/5/12(土) 3.韓国のご飯の食べ方 日本では食事のときは茶碗は左手でももつことになっている。韓国では食事のときに茶碗を手にもってはいけないと教えられた。どうも納得のいかないマナーである。これもいってみてわかった。い…

24-01 南都六宗と天台・浄土

24-01 南都六宗と天台・浄土 遣隋使や遣唐使の派遣の重要な目的として、文物の移入と次代を担う人材の養成があった。隋や唐の時代は中国仏教が花開いた時期である。派遣された僧は最新の仏教をもたらした。その成果が、「南都六宗」である。「南都六宗」は奈…

200-24-02 最澄と鑑真

200-24-02 最澄と鑑真 ■ 鑑真の招請 日本では僧尼令があったが、それに反した行基菩薩(668~749年)の民間伝道や私度僧の増加などにより、律令政府は唐の授戒制度や戒律研究を必要としていた。天平5年(733)に派遣された遣唐使により、インドの菩提僊那(ぼだい…

200-24-03 日本の浄土信仰

24-03 日本の浄土信仰 ■阿弥陀信仰の伝来 わが国における阿弥陀信仰は、釈迦信仰や薬師信仰、弥勅信仰、観音信仰などと共に、その歴史は古い。しかも今日にいたるまでひろく、かつ強い命脈を保ってきた。 『日本書紀』には舒明(じょめい)天皇十一年(六三…

200-24-04 最澄の再評価

24-04 最澄の再評価 最澄(767~822年)は、・・・近江国滋賀に生まれ、俗姓は三津首(みつのおびと)。12歳で寺に入り、19歳で授戒。しかし奈良仏教の世俗化に失望、人生の無常をも感じて、わずか3ヶ月にして奈良から京都比叡山に逃れた。以後13年間にわた…

24-05 徳一との論争

24-05 徳一との論争 2006/10/16(月) 最澄は密教修得の不十分さを自覚し、812年(弘仁3)高雄山寺におもむいて空海から灌頂(かんじょう)をうけ弟子になったが、その後決別する。814年筑紫国にいき、翌815年には関東地方を巡行した。このころ、会津にいた法相…

24-06 最澄の入唐

24-06 最澄の入唐 2006/10/18(水) 最澄は延暦4年(785)19歳のとき東大寺の戒壇で具足戒を受けたが、僧堂生活をすべきところを比叡山に入って山林修行の生活に入った。この修行中さまざまな仏教典籍を読破するなか天台の典籍に出会った。これは鑑真和上によ…

24-07 大乗戒壇の設立と小乗仏教との決別

24-07 大乗戒壇の設立と小乗仏教との決別 2006/10/19(木) 最澄は自分の宗教の最終目的を、仏法によって国家をまもること(鎮護国家)においていた。そのために、天台宗にも戒壇が必要だと考えた。その当時、戒をうけるのは小乗戒を基礎とする南都の戒壇でなけ…

24-08 七~八世紀の中国の仏教

24-08 七~八世紀の中国の仏教 2006/10/20(金) 日本においては、天台宗は最澄によって展開される。最澄が唐に渡ったのは、第18回(804年)。天台教学は一時代前の隋の時代に隆盛だった教学であった。最澄が敢えて、天台教学を求めたのはどこにあるのか。一つ…

24-09 最澄と聖徳太子(最澄の心戒文)

24-09 最澄と聖徳太子(最澄の心戒文) 2006/10/25(水) ※再掲です。 大師は弘仁七年(八一○年)、四天王寺の聖徳太子廟に参詣されたときに、次のような詩を太子に捧げられた。 四天王寺上宮廟に謁する詩 今我が法華聖徳太子は是れ南嶽慧思大師の後身なり、厩…

24-10 「一向大乗戒」のパラドックス

24-10 「一向大乗戒」のパラドックス 2006/10/31(火) 彼(最澄)の自己意識において、最澄は天台智顗の教説の祖述者であり、彼はなんら独創的思想家であろうとしなかった。にもかかわらず、私は彼の思想には天台智顗にない思想が、少なくとも一つはあると思…

200-24-11 道元の疑問

200-24-11 道元の疑問 道元は、わが国曹洞宗の開祖である。その道元が出家したのは建暦二年(1212)、数えで十三歳のときのことである。道元は先ず母方の叔父、良観法印を頼り、その仲介で比叡山横川(よかわ)の千光坊に入った。そして翌年、時の天台座主公…

23-01 見仏聞法

23-01 見仏聞法 以前、『般舟三昧経』(はんじゅざんまいきょう)の読み下し文か口語訳を探していると書いた。「見仏聞法」(けんぶつもんぽう)のことを調べたかったからである。「見仏聞法」を読み下しをすれば、「仏にまみえて法を聞く」となる。「見る」…

200-23-02 太子と菩薩

200-23-02 太子と菩薩 『隋書倭国伝』の、 607年の遣隋使についての次の箇所はよく知られている。 その国書にいわく、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云云」と。帝、これを覧て悦ばず、鴻臚卿にいっていわく、「蛮夷の書、無礼…

23-03 伝記の資料一覧

23-03 伝記の資料一覧 2006/10/26(木) ◆『日本書紀』 【成立】奈良・養老20(720)年【編者】舎人親王 他720年(養老4)成立 舎人親王編修・太子のことを知る上での最古の根本資料・太子没後100年目に撰述された本書においてすでに聖人化が明確に表れ…

23-04 最近の太子研究

23-04 最近の太子研究 2006/10/26(木) 「聖徳太子」といえば、用明天皇の皇子で「厩戸皇子(うまやどのみこ)」といわれ、用明の姉にあたる推古天皇が即位するや、甥の聖徳太子は摂政となり蘇我馬子と協力して、冠位十二階の制度や、憲法十七条を制定し、小…

23-05 太子と阿弥陀信仰

23-05 太子と阿弥陀信仰 2006/10/26(木) 午前 9:06 --23 聖徳太子の仏教 歴史 facebookでシェア twitterでつぶやく わが国における阿弥陀信仰は、釈迦信仰や薬師信仰、弥勒信仰、観音信仰などと共に、その歴史は古く、しかも今日にいたるまでひろく、かつ強…

23-06 太子の先駆性

23-06 太子の先駆性 2006/10/26(木) 聖徳太子が生まれたのが573年、推古天皇の摂政になったのが593年。主な事跡を並べてみる。 601年 斑鳩(いかるが)宮の造営に着手 603年 冠位十二階制定 604年 十七条憲法制定 605年 斑鳩宮完成 607年 遣隋使派遣、法隆寺…

23-07 太子の年表

23-07 太子の年表 2006/10/26(木) 538年 百済の聖明王が仏像、経論、僧を献じる。 <帝・元>572年 (誕生) 聖徳太子(厩戸皇子)を穴穂部間人皇女が厩戸前にて出産583年(12歳) 日系百済人の日羅が来朝し「敬礼救世観音 伝燈東方粟散王」と太子を礼賛584年…

23-08 天寿国繍帳

23-08 天寿国繍帳 2006/10/26(木) 東京国立博物館には四つの建物がある。正門を入って正面に見えるのが本館、その左手少し奥に平成館、右手にオリエント館が並ぶ。正門からは見えないが、左に入ってゆくと、法隆寺宝物館がある。先に述べた、天台宗開宗1200…

22-26 聖徳太子とアショカ王

22-26 聖徳太子とアショカ王 2007/4/12(木) 仏教の受容のもたらすものは想像以上に大きい。仏教の受容は漢字と仏像をもたらすことを意味する。それまでは、言霊思想が支配的であった。仏教の受容は、言葉を漢字という文字で表し、神を像であらわすことを受け…

23-09 太子の仏教の特色

23-09 太子の仏教の特色 2007/5/9(水) ■ 太子仏教の在家的傾向 太子の代表的な著作とされているものといえば『三経義疏』である。これは、『法華経』、『維摩経』、『勝鬘経』の三経に対する注釈書の総称であある。内容としては、例えば、『法華義疏』は中国…

23-10 太子と日本天台

23-10 太子と日本天台 2007/5/9(水) ■ 聖徳太子と仏教 和国の教主 法華経の最初の研究者 鑑真来日と太子伝説 鑑真来日と最澄 中国仏教史とインド仏教史を並行的に見てはならない 日本の仏教史と中国の仏教史は並列的に見なくてはならない 聖徳太子 百済から…