24-06 最澄の入唐

24-06 最澄の入唐

2006/10/18(水)


 最澄延暦4年(785)19歳のとき東大寺戒壇具足戒を受けたが、僧堂生活をすべきところを比叡山に入って山林修行の生活に入った。この修行中さまざまな仏教典籍を読破するなか天台の典籍に出会った。これは鑑真和上によってもたらされたものである。

 全ての人の成仏を説く天台法華の教学に魅せられた最澄は、さらに山に籠って行学に励んだ。その行学の成果が結実し、内供奉十禅師に任ぜられ、高雄山寺(神護寺)法華会の講師に招かれた。その評判が天皇の耳にも達し、それが機縁で入唐求法の還学生(げんがくしよう)(短期留学)に選ばれた。

 最澄は弟子の義真(781-833)(後に初代天台座主)を通訳に連れ、空海とおなじ延暦23年(804)7月、遣唐副使の第二船に乗って出発した。

 8月末 中国の明州(寧波)に到着。船旅に体調を崩した最澄はしばらく天台山への出発を遅らせる。
 9月15日 明州の牒(ビザ)を得て天台山に向かう。
 9月26日 約160km歩いて台州の臨海に到着。天台山に直行せずに大回りをしたのは、台州の滞在許可(ビザ)が必要だったからである。最澄台州刺史(最高長官)陸淳に面会した。最澄は陸淳によって当時の天台宗の最も優れた高僧だる道邃和尚に出会うことができた。道邃和尚は陸淳刺史の依頼で、たまたま天台山から台州龍興寺に『摩訶止観』の講義に来ていた。

 最澄は天台大師の祖廟参拝のため臨海から約50kmの天台山に登る。国清寺では惟象阿闍梨から雑曼荼羅の供養法(密教)を受け、天台山仏隴では行満和尚に八十余巻の仏典と妙楽大師湛然の遺品を授けられた。そして、天台大師の廟のある真覚寺に詣でて、「求法斎文」を誦した。

 11月5日 天台山巡礼を終えて臨海の龍興寺にもどる。ここで受学と日本に持ち帰る仏典書写に専念することになる。最澄は8ヶ月の入唐期間のうち6ヶ月をこの台州に留まり、そのほとんどを龍興寺で過ごす。また、弟子の義真は12月7日に国清寺の戒壇具足戒(小乗戒)を受け、帰国後に入唐僧として十分な資格を得て、後に初代天台座主となる。義真は同時に国清寺固有の典籍の書写した。

 2月20日には103部253巻(一説には230部460巻)もの写経を終えた。還学生(短期留学)の最澄にとって帰国船に乗るまでの期間は限られていた。それにも関わらずこれだけの成果を出した。これには陸淳が20人の写経生の動員に協力し、道邃和尚、行満和尚も資料の厳選と収集や僧侶を動員など好意的な協力を惜しまなかったのであろう。

 3月2日 最澄と義真は円教菩薩戒を受戒した。これが、後に比叡山法華経による大乗円頓戒の独立への根拠となる。
 3月25日 明州(寧波)に到着。
 4月3日 遣唐使一行が明州(寧波)に到着。
 4月8日 最澄越州紹興)に向けて出発。越州紹興)では天台密教のもととなる受法をする。ここでは法華仏教に焦点を当てるので詳説はしない。
 5月18日 遣唐第一船に乗船し、日本に向け出航。
 
 『法華経』は聖徳太子が弘め、天台仏教は鑑真和尚が伝えたものの、それらが日本で大きく花開いたのは最澄の求法入唐を待たなくてはならなかった。帰国の翌年である延暦25年(806)正月、南都六宗のほかに独自の宗派として天台宗が公認された。