200-24-02 最澄と鑑真

 200-24-02 最澄と鑑真

■ 鑑真の招請

 日本では僧尼令があったが、それに反した行基菩薩(668~749年)の民間伝道や私度僧の増加などにより、律令政府は唐の授戒制度や戒律研究を必要としていた。天平5年(733)に派遣された遣唐使により、インドの菩提僊那(ぼだいせんな)や唐の道弱(どうせん)といった僧を日本に招請したが、正式な授戒には少なくとも三師七証の10人の僧が必要だった。そこで、鑑真和上(687~763年)の招請となる。

 遣唐使の栄叡(ようえい)と普照が「日本では、かつて隋の南岳大師慧思が日本の聖徳太子に生まれ変わって法華経を弘めたものの、今だ戒律が伝わらず、戒律を授ける高僧10人が是非とも必要です」と言った。
 その慧思は天台大師の師匠でもあるが、鑑真にとっても5~6代前の祖師に当たる。天台と戒律に詳しい鑑真和上はこの言葉に鑑真和上は祖師である南岳大師慧思が日本から自身を呼んでいる実感をいだいた。それが、難破や師僧の出国を願わぬ弟子などの妨害など5回の失敗を乗り越え、自ら視力を失う辛苦を味わいながらも日本に渡った理由だろう。

 来日してからは東大寺戒壇院を築いて、日本で最初の受戒会を弟子とともに行った。また、唐招提寺を開いて戒律を教え導いた。日本の律宗の開祖となる。

 さて、鑑真和上は日本渡航に際してたくさんの天台典籍をもたらした。鑑真和上の入滅から3~4年後に生まれた伝教大師最澄(767~822)はこの典籍を読んで天台法華教学に目覚め、後に入唐して天台仏教を日本にもたらす。実に鑑真和上の不屈の日本渡航の業績は天台法華仏教にとっても大きな偉業である

 

引用・参照
http://www.kosaiji.org/hokke/tendai/saicho.htm


■ 鑑真の請来したもの

 鑑真は仏舎利、仏像、仏具、経、律、論、琉(注釈書)や玄奘の『大唐西域記』、王義之の書跡などを持参した。

〔天台学関係〕天台大師智頴の『戒疏』、『法華玄義』『法華文句』『摩詞止観』

引用・参照
・『仏教伝来』 日本編 p68