23-06 太子の先駆性

23-06 太子の先駆性

2006/10/26(木)


 聖徳太子が生まれたのが573年、推古天皇の摂政になったのが593年。主な事跡を並べてみる。

 601年 斑鳩(いかるが)宮の造営に着手
 603年 冠位十二階制定
 604年 十七条憲法制定
 605年 斑鳩宮完成
 607年 遣隋使派遣、法隆寺斑鳩寺)完成
 622年 斑鳩宮で逝去

 太子が活躍したのは七世紀の初頭である。21世紀の初頭のこの時代は聖徳太子の活躍した時代から丁度1400年を経ている。遣隋使の派遣は607年、来年は遣隋使派遣から1400年になる。1400年は遠い昔のことである。聖徳太子が一万円札から消えたのは昭和59年(1984年)11月である。聖徳太子の存在は忘れられがちである。しかし、日本の仏教の歴史をみるとき、聖徳太子の果たした役割は大きい。

 日本は聖徳太子の時代に仏教の全面的な受容に踏み切った。仏教は聖徳太子の生まれる前、538年(あるいは552年)に朝鮮の百済から伝えられた。しかし、その後も物部氏などの執拗な抵抗が続いた。蘇我氏物部氏を破って、仏教の受入れの基盤が整った。高句麗百済からの渡来僧の招来、飛鳥寺の建立、法隆寺の建立などが6世紀の末になって一気に進められる。推古朝が成立し、聖徳太子が摂政に就任したのは丁度その頃である。

 聖徳太子高句麗からの渡来僧 慧慈(えじ)から仏教を学び、遣隋使を派遣して仏教の経典などの取得に努めた。聖徳太子は政治家であるとともに仏教の研究者でもあった。その研究の成果を『三経義疏』として残した。『三経義疏』は『法華義疏』(伝615年)、『勝鬘経義疏』(伝611年)、『維摩経義疏』(伝613年)の総称である。それぞれ『法華経』(ほけきょう)、『勝鬘経』(しょうまんきょう)、『維摩経』(ゆいまきょう)の三経の注釈書である。 聖徳太子が摂政に就任する少し前に隋(581~619年)が中国を統一した。中国の仏教も揺籃期を過ぎてようやく中国独自の仏教の花が開こうとしていた。

 その最初の開花が、天台智顗(538~597年)の天台教学である。天台教学は『法華経』を中心におく大乗仏教の教学である。隋の第二代皇帝である煬帝(ようだい 在位604~618年)は、暴君の悪名高い天子ではあるが、その即位前、晋王時代より、天台智顗を崇敬したことで知られている。聖徳太子が遣隋使を派遣した頃には、智顗はすでに亡くなっていたが、天台宗は大きな影響力をもっていた。しかし、小野妹子は天台教学の文献を持ち帰らなかったようである。

 太子も『法華経』に深い関心を持っていた。しかし、聖徳太子は、智顗のことも天台教学のことも知らなかった。太子の『法華義疏』は天台教学が成立する前の中国の仏教理解から多くを学んでいる。このことが幸いした、と思われる。天台教学はその後の遣隋使によっても伝えられることがなかった。日本に初めて伝わったのが奈良時代。鑑真の一行がもたらしたのが最初である。鑑真の一行がもたらした「天台」を最澄が発見したのである。

 中国の天台教学が日本に伝わるのに大きな迂回路を通ってきている。日本における天台の定着は平安時代になってからである。中国の天台の開花からはおよそ200年の隔たりである。大きなタイムラグである。このタイムラグが日本の仏教に決定的な影響をもたらした。