23-05 太子と阿弥陀信仰

23-05 太子と阿弥陀信仰

2006/10/26(木) 午前 9:06 --23 聖徳太子の仏教 歴史

facebookでシェア
twitterでつぶやく


 わが国における阿弥陀信仰は、釈迦信仰や薬師信仰、弥勒信仰、観音信仰などと共に、その歴史は古く、しかも今日にいたるまでひろく、かつ強い命脈を保ってきた。

 『日本書紀』によれば舒明天皇十一年(六三九)九月に三十年の在唐を果たして帰朝した学問僧恵隠(えおん)が、翌十二年五月に『無量寿経』の講説を行い、その後、孝徳天皇の白雉三年(六五二)に宮中において再びその講説を行っている。この記載から『無量寿経』は恵隠によってわが国に将来されたと考えられている。以来今日まで数えてざっと千三百年、このとき阿弥陀仏像も将来されていたかもしれないが、その当時の遣品と考えられる阿弥陀像は一躯も伝わっていない。

 恵隠の『無量寿経』講説以前に阿弥陀仏に対する知識や信仰の伝来をにおわせるのは聖徳太子の製作と伝えられる『法華経義疏』の原本となる『法華経』で、当時すでに伝来しており、その「薬王菩薩本事品」には阿弥陀仏に対する経説がある。

 また『維摩経義疏』の「仏国品」には次のような一節がある。「無量寿経云。唯除五逆誹誇正法者。但為一念非謂一生終身修行也」。これは、『無量寿経』の四十八願の第十八願の「唯除五逆誹誇正法」の八字が引用されてある。

 こうみると推古朝に阿弥陀仏に対する信仰がすでに存在したことも考えられる。だが『無量寿経』伝来の経緯は全く明らかでなく、阿弥陀信仰の存在そのものを支える積極的資料にも欠けている。こういうことからわが国の阿弥陀信仰流行の発端を恵隠の『無量寿経』講説、舒明天皇十二年(六四〇)以降のことと考えるのが穏当のようである。

引用・参照
・「わが国における阿弥陀仏の造像」
   『日本の美術6』 阿弥陀如来像 至文堂