17-04 『上生経』の意味するもの

17-04 『上生経』の意味するもの

2007/4/25(水)


 『上生経』においては、兜率天ありさまがくわしく語られる。兜率天にある宮殿のようすが語られ、そこにいる弥勒の姿かたちもくわしく語られる。そして、そのさまを心に思い描くことがしきりにすすめられている。『上生経』の正式名称は『観弥勒菩薩上生兜率天経』である。「観」とは、思いをこらして心に思いうかべること、心の中で見つめることである。

 「観経」と呼ばれる一群の経典がある。『観無量寿経』もそのひとつ。そこでは阿弥陀様の姿を心に思い描く、そのさまざまな方法が説かれている。阿弥陀信仰にとってはだいじな経典である。『上生経』も観経の一つである。だから、その修行方法がくわしくでている。

 一群の観経は、だいたい同じころにあいついで中国語に訳された。どれもサンスクリット本は伝わっていない。サンスクリット本があったことを裏づけるようなチベット語訳もない。『上生経』だけはチベット語訳があるが、これは中国語訳から重訳されたものだという。

 どの観経も内容から考えて、インドで作られたと断定するに無理があるらしい。そうすると、中央アジア(西域)か中国で作られたということになる。

 中国においては、五胡十六国から北魏の時代において弥勒が盛んに信仰された。敦煌莫高窟の初期の北涼時代の石窟には弥勒像が主尊とされている。また、北涼を滅ぼした北魏の時代の雲岡石窟にも弥勒菩薩像が多い。この時代の弥勒信仰は、弥勒を釈迦を継承するものであると考えたようである。弥勒を釈迦の後継者とみる考えの芽生えは、すでに『上生経』のなかに見られる。前回の内容の紹介の部分を再読していただきたい。読みようによっては、釈迦が後継者を指名したように読むこともできる。

 しかし、中国における弥勒信仰はその後意外な展開を遂げる。中国には「疑経」と呼ばれる仏教文献がある。弥勒に関する疑経の制作を通じて、弥勒は「知的、説法者的、人間的な性格の強い仏菩薩」から、「慈悲的、救済者的、神的な性格の強く現れた仏菩薩」へと変質させられていった。

参照・引用
・菊地 章太 『弥勒信仰のアジア』大修館書店