200日本-60最澄と天台

24-06 薬師寺と三蔵法師玄奘

24-06 薬師寺と三蔵法師玄奘 2006/10/17(火) 昭和42年に故高田管主は薬師寺白鳳伽藍復興を発願した。この発願はこの2003年3月の大講堂の復興によってようやく達成された。今日では、薬師寺は往時の姿をを取り戻している。 薬師寺は、680年に創建された法相宗…

24-01 南都六宗と天台・浄土

24-01 南都六宗と天台・浄土 遣隋使や遣唐使の派遣の重要な目的として、文物の移入と次代を担う人材の養成があった。隋や唐の時代は中国仏教が花開いた時期である。派遣された僧は最新の仏教をもたらした。その成果が、「南都六宗」である。「南都六宗」は奈…

200-24-02 最澄と鑑真

200-24-02 最澄と鑑真 ■ 鑑真の招請 日本では僧尼令があったが、それに反した行基菩薩(668~749年)の民間伝道や私度僧の増加などにより、律令政府は唐の授戒制度や戒律研究を必要としていた。天平5年(733)に派遣された遣唐使により、インドの菩提僊那(ぼだい…

200-24-03 日本の浄土信仰

24-03 日本の浄土信仰 ■阿弥陀信仰の伝来 わが国における阿弥陀信仰は、釈迦信仰や薬師信仰、弥勅信仰、観音信仰などと共に、その歴史は古い。しかも今日にいたるまでひろく、かつ強い命脈を保ってきた。 『日本書紀』には舒明(じょめい)天皇十一年(六三…

200-24-04 最澄の再評価

24-04 最澄の再評価 最澄(767~822年)は、・・・近江国滋賀に生まれ、俗姓は三津首(みつのおびと)。12歳で寺に入り、19歳で授戒。しかし奈良仏教の世俗化に失望、人生の無常をも感じて、わずか3ヶ月にして奈良から京都比叡山に逃れた。以後13年間にわた…

24-05 徳一との論争

24-05 徳一との論争 2006/10/16(月) 最澄は密教修得の不十分さを自覚し、812年(弘仁3)高雄山寺におもむいて空海から灌頂(かんじょう)をうけ弟子になったが、その後決別する。814年筑紫国にいき、翌815年には関東地方を巡行した。このころ、会津にいた法相…

24-06 最澄の入唐

24-06 最澄の入唐 2006/10/18(水) 最澄は延暦4年(785)19歳のとき東大寺の戒壇で具足戒を受けたが、僧堂生活をすべきところを比叡山に入って山林修行の生活に入った。この修行中さまざまな仏教典籍を読破するなか天台の典籍に出会った。これは鑑真和上によ…

24-07 大乗戒壇の設立と小乗仏教との決別

24-07 大乗戒壇の設立と小乗仏教との決別 2006/10/19(木) 最澄は自分の宗教の最終目的を、仏法によって国家をまもること(鎮護国家)においていた。そのために、天台宗にも戒壇が必要だと考えた。その当時、戒をうけるのは小乗戒を基礎とする南都の戒壇でなけ…

24-08 七~八世紀の中国の仏教

24-08 七~八世紀の中国の仏教 2006/10/20(金) 日本においては、天台宗は最澄によって展開される。最澄が唐に渡ったのは、第18回(804年)。天台教学は一時代前の隋の時代に隆盛だった教学であった。最澄が敢えて、天台教学を求めたのはどこにあるのか。一つ…

24-09 最澄と聖徳太子(最澄の心戒文)

24-09 最澄と聖徳太子(最澄の心戒文) 2006/10/25(水) ※再掲です。 大師は弘仁七年(八一○年)、四天王寺の聖徳太子廟に参詣されたときに、次のような詩を太子に捧げられた。 四天王寺上宮廟に謁する詩 今我が法華聖徳太子は是れ南嶽慧思大師の後身なり、厩…

24-10 「一向大乗戒」のパラドックス

24-10 「一向大乗戒」のパラドックス 2006/10/31(火) 彼(最澄)の自己意識において、最澄は天台智顗の教説の祖述者であり、彼はなんら独創的思想家であろうとしなかった。にもかかわらず、私は彼の思想には天台智顗にない思想が、少なくとも一つはあると思…