2019-12-06から1日間の記事一覧

21-04 飛鳥川

21-04 飛鳥川 飛鳥の南には高取山(標高583m)が広がる。高取山の南は吉野川が東西に流れ、その南は紀伊山地である。飛鳥川はこの高取山に源流を発する。そこから山を下って飛鳥に出る。さらに北流し、明日香村から橿原市、磯城郡を経て奈良盆地のほぼ中央で…

21-09 古代の木材の供給地

21-09 古代の木材の供給地 滋賀県大津市街の南東にたたずむ田上(たなかみ)山地は、標高600mまでの山々からなる。かつては緑に覆われていたが、飛鳥期から奈良期にかけて、平城京等の建立のため建築資材として多くの樹木が伐採されてしまった。この山地の主…

21-01 蘇我氏の戦略

21-01 蘇我氏の戦略 毎年元日には、京都や奈良を訪れることにしている。その年(2003年)は、飛鳥まで行った。元日は高速道路も空いていて楽に走ることができる。石舞台、橘寺、亀石、飛鳥寺とまわった。 飛鳥は、名阪の奈良・天理インターチェンジから南へ…

21-02 造営のスポンサー

21-02 造営のスポンサー 2006/4/5(水) 斑鳩の宮の造営のスポンサーは誰であったのか。秦氏ではなかったのか。京都太秦の広隆寺の弥勒菩薩は秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から拝領したものである。太子と秦氏との間には相当深いつながりがあったことを…

21-03 飛鳥の地

21-03 飛鳥の地 2006/10/26(木) 明日香村を中心として、橿原市・桜井市・高取町などの一部を含めて、広く飛鳥と呼ぶことがある。しかし、ここでは、香具山より南、橘寺付近より北で、飛鳥川より東の地域に限ることとする。 飛鳥の北に、天香久山、耳成山、畝…

21-05 竹内街道

21-05 竹内街道 608年に小野妹子が隋使裴世清(はいせいせい)らとともに帰国する。このときには、飛鳥京と難波を結ぶ道路はまだ整備されていなかった。最古の官道とされる竹内街道(たけのうちかいどう)が整備されたのは、裴世清(はいせいせい)の帰国後…

21-06 大和川の水運

21-06 大和川の水運 2006/10/26(木) 大和川は、その源を笠置山地に発し、奈良盆地の周囲の山から流れる支流を盆地中央部で集めて一つになり、生駒山地と金剛山地の間の峡谷を通って大阪平野に出て、大阪湾に流れ込んでいる。一級河川の大河である。生駒山地…

21-07 奈良盆地を囲む山

21-07 奈良盆地を囲む山 2006/10/26(木) 若草山から奈良盆地が一望できる。眼下に東大寺の大仏殿や興福寺の五重塔、少し遠くに平城京の旧跡が見える。中央部を横切るように大和川が東から西へと流れていく。その南を見ると畝傍、耳成、香具山の大和三山がか…

21-08 近鉄大阪線 飛鳥まで

21-08 近鉄大阪線 飛鳥まで 2006/10/26(木) 名古屋から近鉄の電車を利用して飛鳥に向かう。名古屋と大阪難波の間には直通の特急が走っている。近鉄名古屋線で三重県の松阪の辺りまで南下し、そこから大阪線に入る。大阪線は国道165号線沿いに西へ向かい、青…

21-10 法隆寺の広い空

21-10 法隆寺の広い空 2006/10/26(木) 西名阪の法隆寺インターを出て北に向かうとすぐ大和川にさしかかる。その辺りから眺めると法隆寺は、松尾山の麓の松林に覆われ、五重の塔の上部だけが辛うじて見えるだけである。矢田丘陵は平群谷(へぐりだに)を挟ん…

21-11 斑鳩の選定

21-11 斑鳩の選定 2006/10/27(金) 法隆寺の発掘で、さまざまなことがわかってきた。現在の法隆寺は再建されたものであること、再建前の法隆寺(以下、斑鳩寺という)は四天王寺様式で、金銅、講堂、五重塔が直列に配置されていたことなどである。五重の塔の…

22-16 飛鳥寺の柱礎

22-16 飛鳥寺の柱礎 2006/10/27(金) ■ 飛烏寺の塔の埋納物 蘇我馬子の建てた飛烏寺は、七世紀前半の代表的寺院で、当時の仏教文化をよく示している。発掘調査の結果によると、ほぼ束西200m、南北300mの寺域をもち、その西南に塔を中心として三金堂を置く大寺…

21-12 高松塚と亀虎古墳

21-12 高松塚と亀虎古墳 2006/10/27(金) 高松塚古墳や亀虎古墳など終末期古墳がなぜ高取川(たかとりがわ)の上流の周辺に集まっているのか。これらの古墳は、いずれも小高い山や丘陵の南側の斜面に横穴式で築造されているという共通性をもつ。このことから…

21-13 斑鳩移転と不比等

21-13 斑鳩移転と不比等 2006/10/27(金) 法華寺は奈良の平城京跡の大極殿跡地の東方にある。法華寺の地にはもと藤原不比等の邸宅があり、不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮とした。天平17年(745年)皇后宮を宮寺としたのが…

21-14 太子の後半生

21-14 太子の後半生 2006/10/27(金) 斑鳩の宮の建設、斑鳩への一族の移転は蘇我氏との権力争いに敗れたためではない。斑鳩の宮の建設が開始されたのは601年、完成し移転したのが605年。しかし、である。 聖徳太子は、摂政になったとき(593年)から、退き時…

17-01 疑経と弥勒信仰

17-01 疑経と弥勒信仰 中国には疑経と呼ばれるお経がある。インド(もしくは中央アジア)で作られ中国語に訳されたのではなく、はじめから中国語で書かれた仏教経典をそう呼ぶ。「疑経」という言い方自体、否定的表現である。しかし、中国における弥勤信仰の…

17-02 弥勒信仰の伝来と『下生経』

17-02 弥勒信仰の伝来と『下生経』 2007/4/25(水) 中国に弥勒信仰が伝わったのはいつか。『弥勒への約束』(以下『約束』という)というお経があることは別のところで述べている。もとはインドの文語であるサンスクリットで書かれたものである。その翻訳は四…

17-03 『上生経』とは

17-03 『上生経』とは 2007/4/25(水) 弥勒について語る中国語訳の経典には、もうひとつ別の『観弥勒菩薩上生兜率天経』というものがある。略して『上生経』と呼ぶ。五世紀の中ごろ沮渠京声(そきょきょうしょう)が訳したと伝えられる。サンスクリット本は伝…

17-04 『上生経』の意味するもの

17-04 『上生経』の意味するもの 2007/4/25(水) 『上生経』においては、兜率天のありさまがくわしく語られる。兜率天にある宮殿のようすが語られ、そこにいる弥勒の姿かたちもくわしく語られる。そして、そのさまを心に思い描くことがしきりにすすめられてい…

17-05 弥勒信仰の変質と疑経

17-05 弥勒信仰の変質と疑経 2007/4/25(水) 弥勤信仰を変質させた疑経のひとつに『法滅尽経』がある。釈迦の教えが滅びようとするときのありさまを語った経典である。その描写がたいへんリアルなため、いくつかの仏教文献に引用された。そのため、古くから疑…

17-06 『法滅尽経』と末法思想

17-06 『法滅尽経』と末法思想 2007/4/26(木) 『法滅尽経』のテーマは、僧侶の堕落と教団の危機がテーマとなっている。五胡十六国のうち最後に北魏に滅ぼされた北涼でも仏教が盛んであった。国王の沮渠蒙遜(そきょもうそん、在位401年-433年)は中央アジア…

17-07 月光童子の登場

17-07 月光童子の登場 2007/4/26(木) 未来のあるとき、人間世界が危機におちいり、自然災害までそれに連動する。そういう思想が中国にはあり、讖緯(しんい)の文献に語られ、道教経典でもくりかえし説かれていた。讖緯とは、儒教の経典にかこつけて神秘的な…

17-08 弥勒から阿弥陀へ

17-08 弥勒から阿弥陀へ 2007/4/26(木) 六世紀に弥勒の救済を説く偽経がいくつか現れた。だからといってそれまでの正統的な(中国語訳の経典にもとづく)弥勒信仰が一掃されてしまったわけではない。しかし、正統的な弥勒信仰に、確実に変質をもたらしたこと…

17-09 南獄慧思の末法思想

17-09 南獄慧思の末法思想 2007/4/26(木) 天台大師智顗(ちぎ)の師であった南岳慧思(なんがくえし)は、五五八年に『立誓願文』(りゅうせいがんもん)を書いた。また、慧思は「般若経」を金字で書写し、七宝の箱におさめた。弥勒が現れたとき、この経典を…

16-01 慧文と湛然

16-01 慧文と湛然 2006/10/24(火) ■ 慧文 中国の南北朝時代、北斉の僧。慧聞ともいう。生没年、生地ともに不明。南岳大師慧思の師匠。龍樹の『中論』によって、一心三観の理を悟った。一心三観とは、 空観 執われの心を破し 仮観 すべての現象が仮りのものな…

16-02 「四種三昧」確立の意味

16-02 「四種三昧」確立の意味 『摩訶止観』第一章・第二項「修大行」で説かれた四種三昧(ししゅざんまい)には、般若空観あり、法華一乗観あり、実相観あり、坐禅あり、念仏あり、陀羅尼ありで、後世、各方面に広く用いられるようにいたった。・・・ 第一…

16-03 慧思の 「法華三昧」とは

16-03:慧思の 「法華三昧」とは 2006/10/30(月) 智顗が慧思に出会い、「法華三昧」の修行によって悟りを得たといわれる。しかし、この「法華三昧」とは一体なにか。下記の文章は比較的わかり易い説明である。以下引用である。 --------------…

16-04 一心三観 ~慧思から智顗へ~

16-04 一心三観 ~慧思から智顗へ~ 2006/10/30(月) 湖南省衡山県の北方にそびえる衡山山脈、その主峰の衡山は別名を寿岳とも南岳ともいい、周囲400キロ、山麓をまとわりつくように流れる湘江とあいまって、雄大な眺望を織り成している。 慧思(えじ)は…

16-05 僧肇の空思想と慧思

16-05 僧肇の空思想と慧思 2006/10/30(月) ■ はじめに 天台大師智顗は青年時代に大蘇山の慧思禅師のもとで法華三昧を行じ、そこでの証悟が出発点となって後に天台教学を大成することとなった。ゆえに慧思が智顗に伝えた法華三昧こそが、後の天台教学の淵源と…

16-06 中国天台の成立

16-06 中国天台の成立 2006/11/8(水) ■ 中国天台 中国の隋の時代、天台宗の実質的な開祖である天台宗三祖の天台大師智顗(ちぎ)(538~597年)が中国仏教を再編成して、随の第二代皇帝の煬帝(在位 608~618)の帰依を受けた。その根本とした経典は『法華経…