41-05 初期の石窟の意味について

41-05 初期の石窟の意味について

2006/1/31(火)


■ はじめに

 敦煌莫高窟の石窟のうち、北涼末期から、北魏西魏北周北朝の時代に造営された石窟を初期(421~581年)の石窟という。

 北涼時代の石窟は三つが現存する。その中の一つが第268窟で、禅窟である。禅窟はインドのビハーラ窟から発展変化して形成されたといわれる。北魏時代になると、新しい形の石窟である、中心柱窟が登場する。さらに、西魏時代になると中原地域から新様式の”褒衣博帯”の人物表現が伝わり、西域からの様式と並存しながら発展していった。北周時代には、フリーズ(絵巻物)式の本生図、仏伝図、単幅の盧舎那仏、降魔変(ごうまへん)なども描かれるようになった。

 私は莫高窟の初期の石窟に関心がある。敦煌は初期の時代においては西域からの仏教や文化、そして渡来僧の受入れの窓口となった。仏教や文化は敦煌を通り過ぎただけではなく、敦煌で花開いたり、定住した渡来僧もいた。しかし、鳩摩羅什の漢訳事業を経て、南朝の遼に仏教が定着し、北魏が成立するなど中原の仏教の受容が進むと、敦煌は中原からの文の影響を受けるようになる。法華経浄土教の影響が現れ始める。

 それでは、初期の時代の石窟に西域の仏教はどのような影響を与えたのか。敦煌の石窟に先立って、西北インドバーミヤンや西域のキジルで大規模な石窟の造営が行われていた。敦煌の石窟の造営にあたって、それらの先例が大きな影響を及ぼしたことであろう。問題はその影響がどのような形で及んだのかである。

 バーミヤンやキジルの石窟は、当地の仏教の教理と深く結びついていたと思われる。バーミヤンの石窟の天井画には、弥勒如来像が描かれている。キジルの石窟にも弥勒如来像が描かれている。キジルの場合は、壁に仏伝図、中心柱の奥の部屋の壁には釈迦の涅槃像が横たわっている。これは、「今」が仏陀はすでに亡くなり、未来仏の弥勒如来はいまだ下生をしていない、無仏の時代であることの認識が表されている。

 ところが、莫高窟の初期の石窟はこのような一貫した時代認識でデザインされているようには思われない。中心柱窟の奥に涅槃像が描かれているのは一例に過ぎない。白衣仏が描かれているのが数例ある。中心柱窟をみると、形が似ているにも関わらず、図像の配置に一貫性がみられない。

 莫高窟の石窟は、人里を離れた場所に禅定窟をつくることから始まったと考える。しかし、まもなく、キジルの石窟のような壮麗な石窟の造営を志すものが現れたのだろう。敦煌の経済的繁栄が背景にあったのかもしれない。石窟の構造や壁画、仏像の話や図を見せられて、敦煌や近辺の河西回廊の技術者が集められて造営されたのだろう。

 五世紀の半ば頃に、多くの禅観経典がもたらされた。中原に莫高窟の初期の北涼末期から、北魏西魏北周北朝の時代(421~581年)というのは、中国仏教の揺籃期であった。戒・定・慧の三学のうち、戒と定がいまだ未整備であった。五世紀の初頭に鳩摩羅什の一大漢訳事業によって、初期の大乗経典にあたるものの多くと龍樹の論書がもたらされた。ここでようやく、格義仏教から抜け出して「空」が正しく理解されるようになり、大乗と小乗の区別、大乗の優位も確立した。

 しかしながら、戒律と禅定法がまだ不十分であった。鳩摩羅什の漢訳したものの中には、戒律に関するものはなく、禅観経典も不十分であった。その空白を埋めるかのように、五世紀半ばから六世紀にかけて、多くの禅観経典と律蔵が漢訳された。ただし、その多くが中国で成立したもの、すなわち偽経ではないかと言われている。

 中国の仏教界は、「空」が受容された後、「大乗仏教に相応しい戒律と禅定法」を求めた。しかし、すでに他のところで何度も述べているように、、「大乗仏教に相応しい戒律と禅定法」はインドにはないものであった。戒律については大乗の理念に即した律蔵である『梵網経』が中国において撰述され、インドから伝来された小乗の戒律と調和が図られた。

 禅定はむしろ軽んじられていたようである。南岳慧思とそれに連なる天台智顗はその中で、禅定の重要さに気付き、「摩訶止観」の禅定法を確立した。

 中原において禅定が軽んじられ、またその方法も区々であったことを考えると、敦煌の地においてのみ確立した禅定法があったとは思われない。初期の石窟を当時の仏教思想や経典と関連づけて考えることがどれほどの意味があるのか、を疑問である。

 中心柱窟が「右繞礼拝(うにょうらいはい)」に用いられたとする説明に納得のいかないものを感じたのであるが、その理由がようやく解りかけてきたようだ。インドの石窟のうち、チャイティア窟と呼ばれるものは、中央に仏塔(ストゥーパ)があり、仏塔の周りを右回りに回って礼拝するという右繞礼拝がなされている。だからといって、莫高窟の中心柱窟も同様に考えてよい、ということにはならないのではないか。


■ 初期の中心柱窟

 今回の旅では、初期の時代の石窟、なかでも中心柱窟に関心があった。中心柱窟というのは、少し奥のところに方柱(四角い柱)を持つ中心柱窟である。初期の中心柱窟の主なものは次の通りである。

北魏(386~534年):第254窟、第257窟
西魏(535~556年):第435窟、第248窟
北周(556~581年):第428窟