43-02 決断

43-02 決断

2006/1/31(火)


 旅の日程は、8月25日の出発で七泊八日である。しかも成田空港発の旅である。岐阜市内に住んでいる私にとっては成田での前泊・後泊が必要となるので九泊九日の旅になる。仏教美術の先生同行の旅だからだろうか費用も高い。家内に相談するまでもないと思った。しかし、敦煌莫高窟(ばっこうくつ)とクチャ(庫車)のキジル千仏洞を実際に見てみたい思っていたときである。クチャは天山南路の中心に位置するオアシス国家であった。

 仏教が中国に受容されるにあたって大きな抵抗があった。出家して僧侶になることは「孝」の道に反することとされた。また、剃髪も親からいただいた身体を傷つけることであるとされた。すでに儒教が浸透している文化国家に仏教が受容されるにはこの抵抗を乗り越える必要があった。

 『盂蘭盆経』や『父母恩重経』はこの抵抗を乗り越えるために中国で作られた経典である。こうした経典を新たにつくることによって、仏教は「孝」の道との調和を図った。国家権力との相克においても、仏教を「従」とすることによって解決した。しかし、仏教の受容にあたってはさらに大きな変化があったように思われる。キジル千仏洞と莫高窟の石窟を比較することによってその変化がわかるかも知れないと思った。

 クチャのキジル千仏洞と莫高窟の石窟に共通する様式は中心柱窟である。中心柱窟というのは石窟の中心に柱が掘り残されている石窟である。クチャは小乗仏教が栄えた国であり、キジル千仏洞は小乗仏教に裏付けられて作られていると思われる。ところが莫高窟の石窟の背景にあるのは大乗仏教ではないだろうか。今回は、莫高窟のみの見学である。しかし、この中心柱窟をこの目で見たかった。

 敦煌は家内が行きたがっていたところである。井上靖の小説『敦煌』を若いときに読んでから、一度は行ってみたいといっていた。映画『敦煌』も一緒に見に行った。岐阜市の歴史博物館で開催された『敦煌展』にも行った。当時は、私の関心もそこまで広がってはいず、お付き合いの気持ちであった。

 家内を差し置いて私が先に敦煌に行くことに、葛藤があった。しかし、家内は快く了解してくれた。従業員の了解も得られた。その他にも、了解を取り付けなくてはならないところもあったが、決行となった。