41-04 敦煌と魏晋南北朝時代

41-04 敦煌魏晋南北朝時代

2006/1/31(火)


 敦煌莫高窟は、前秦の366年に沙門楽尊(正しくは人偏+尊)が草創したと伝えられる。その後およそ1000年にわたって開鑿(かいさく)が続けられる。その間敦煌を支配する政治勢力は何度も交替をしたが、石窟の開鑿は続けられた。

 莫高窟の造営の歴史は、初期、中期、後期の三期に分けることができる。初期(421~580年)は、匈奴鮮卑などの北方民族が支配する時代。中期(581~907年)は隋や唐の漢民族の統一王朝が支配する時代。莫高窟の最盛期である。後期(907~1368年)は、衰退期。

 敦煌は河西回廊の西端に位置し、中国の西の守りの最前線である。河西回廊はかつて月氏、そして匈奴が支配していたが、前漢(前202~後8年)の武帝の時代に支配がここまで及ぶ。武帝はその支配を西域にまで広げシルクロードを開いた。その後の、魏・晋・南北朝時代の分裂時代は漢民族の支配が及ばず、胡族による支配がめまぐるしく交替する。隋、唐の統一王朝ができて漢民族による支配が回復。唐の時代にも一時吐蕃チベット)の支配下に、その後にもモンゴルの支配下に入ったこともある。

 中国の歴史でわかりづらいのが、魏・晋・南北朝の時代である。莫高窟の時代区分でいうと初期にあたる。魏・晋・南北朝時代(220~589年)は、黄巾の乱(184年)を契機に後漢(25~220年)が滅び、魏、呉、蜀の三国が分立した時代から、隋が中国を再び統一するまでの約370年間の総称である。

 そのうち、華北において、劉渕(りゅうえん)が前趙(ぜんちょう 304~329年)を建てた304年から北魏華北を統一した439年までを五胡十六国時代(304~439年)と呼ぶ。華北で興亡した北魏以後の五王朝と華南の四王朝(宋・斉・梁・陳)が併存・対立した時代を南北朝時代(439~589年)と呼ぶ。この時期に敦煌支配下においた王朝は胡族。しかし、いずれの支配勢力も仏教を信奉していたため石窟の造営は続けられた。