41-15 敦煌の位置
41-15 敦煌の位置
2006/5/14(日)
敦煌の位置を示すのに「河西回廊の喉」というのがもっとも適した表現であると思う。敦煌から楼蘭やトルファンへ行く道は、砂漠の入り口とはいえ、変化に富んだ地形でその踏破は困難を極める。法顕や玄奘も非常な困難な想いをしてわたっている。しかも、敦煌と楼蘭やトルファンとは相当な距離がある。一方、敦煌と河西回廊の他の諸都市とは距離も遠くなくオアシス都市を結ぶ道によってつながっている。
「河西回廊の喉」という表現には、敦煌のこの位置がよく表現されているように思われる。西域からの直接的な影響は砂漠によって免れ、河西回廊の一都市として中国文化を保持し続けた。敦煌の莫高窟をみるときこの位置関係を忘れてはならない。
最初は、西域のキジルやインドの石窟の影響があったのだろう。しかし、敦煌で石窟が造られ始めた時は、河西回廊の他の諸都市でも石窟が造られ始めている。初期の石窟は河西回廊の諸都市の他の石窟と互いに影響を及ぼしあいながら、造られている。その後、敦煌の石窟はさらに中原からの影響を受け始める。
隋や唐が成立し、天台などの中国仏教が花開くと、その影響が敦煌にも及ぶようになる。大乗仏教の経典が壁画のテーマとされるようになったのがその例である。観無量寿経変、法華経変、弥勒経変などである。