42-02 トルファンの歴史

2006/11/15(水) 午前 5:05 --42 トルファン 歴史

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 トルファンは中国新疆ウィグル自治区の東部、天山山脈の南側に位置する。この地は古来から交通の要衝であり、かつては、他民族が集う国際色豊かな土地柄だった。

 トルファンの歴史を見るうえで、特筆すべき二つの王国がある。漢民族が支配した「高昌国」とトルコ系遊牧民族ウィグル人が支配した「西ウィグル王国」である。漢代以来、トルファンは北方遊牧民と東方の漢民族との争奪の地となっていた。五世紀になると、漢人たちがトルファンの地に王国を建てる。これが高昌国である。

 シルクロードに出現した漢人の王国。この植民国家は遊牧勢力の影響を受けながら、支配王家を次々に変えた。六世紀初めに麹氏が王位につき、その王統は640年に唐によって滅ぼされるまで続く。・・・第八代の麹文泰が高昌国を治めていたとき、インドへ求法の旅に出た唐の僧・玄奘トルファンにやってくる。玄奘の威徳に感動した麹文泰は玄奘の旅のスポンサーとなる。彼に莫大な物資を与え、高昌国が通商を結んでいる西突厥にも玄奘の庇護を依頼する。麹文泰の玄奘に対する支援は、はからずも麹氏高昌国と西突厥との友好関係を明かす。

 東に唐、西に突厥。小国なるがゆえに国際情勢に敏感であった高昌国の外交が玄奘に幸いした。麹文泰の心を尽くした支援によって、玄奘は大旅行を完遂することができたのである。再会を約束した二人であったが、玄奘が求法の旅を終えて帰国するとき、高昌国は唐によって滅ぼされていた。

 640年、唐によって高昌国が滅ぼされた後、しばらくは、トルファン地方は西州(せいしゅう)として唐の直轄地となっていた。そして、九世紀なかば、トルファンは大きな歴史的展開を迎える。トルファンにウィグル人が到来してきたのである。トルコ系民族のウィグル人はモンゴル高原が故地であり、遊牧生活をしていた。八世紀中頃に遊牧国家(東ウィグル可汗国(かがんこく))を樹立し、その後100年間、モンゴル草原を支配した。

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 そのウィグル遊牧国家は、840年に同じトルコ系キルギスの襲撃によって幕を閉じる。そのとき分散した一部がトルファン盆地に入り、西ウィグル王国(天山ウィグル王国)を建国する。850年頃のことである。以後、西ウィグル王国は350年間の命脈を保つ。

 トルファンで新しい支配者となったウィグル人は、武力による高圧的な征服ではなく、多様な文化を吸収し融合するといった高度な文化政策で王国を築き上げた。トルファンに土着していた西方インド・ヨーロッパ系の文化、イラン系の文化、インド系の文化、それに漢民族文化をウィグル人は積極的に摂取した。

 支配層がマニ教徒であったウィグル人は、次第に仏教を受け入れていく。・・・そのことを端的に示すものが西ウィグル王国時代の仏教芸術である。トルファン郊外に位置するベゼクリク石窟(千仏洞)の「誓願図」の一つに『燃燈仏授記物語』がある。髪の毛を地面に敷く人物と、髪の毛の上に立つ過去仏の姿が表現されている。髪の毛を地面に垂らす前世の釈迦の姿は、僧を敬うにあたり髪を地に敷き、背をかがめた高昌国の王の姿に重なる。当初、マニ教を信じていたウィグルの王も、やがては仏教に心酔していくことになる。

 十三世紀初め、モンゴルが拡大していくが、ウィグルは戦わずしてモンゴルと一体化する。モンゴルは、ウィグル人の高い能力に並々ならぬものを感じ取り、彼らの文化程度の高さを温存する道を選ぶ。ちなみに、モンゴル文字はウィグル文字を改良してできたものである。

 トルコ系遊牧民族ウィグル人が、トルファン地方に勢力を張って以降、西域はトルコ化が進んでゆく。中央アジアのことをトルキスタントルコ人の土地)と呼ぶようになるが、それは九世紀半ばに、ウィグル人がトルファンに移動してきたことに端を発する。

引用・参照
週刊朝日百科 『シルクロード紀行 No.3 トルファン』p12