32-16 バーミアン

32-16 バーミアン

2006/8/21(月)


 バーミアン渓谷は古代以来の都市であるバーミアンの町を中心とするヒンズークシ山脈の山中の渓谷地帯で、標高2500mほどの高地に位置する。バーミアン遺跡は「バーミアン渓谷の文化的景観と古代遺跡群」として、2003年にユネスコ世界遺産文化遺産)に登録された。

 古代から存続する都市バーミアンの近郊には、1世紀から石窟仏教寺院が開削され始めた。石窟の数は1000以上にものぼり、グレコバクトリア様式の流れを汲む仏教美術の優れた遺産である。

 4世紀から5世紀頃には高さ55mと38mの2体の大仏をはじめとする多くの巨大な仏像が彫られ、石窟内にはグプタ朝のインド美術やササン朝のペルシア美術の影響を受けた壁画が描かれた。バーミアンの仏教文化は繁栄をきわめ、その200年後の630年に唐の仏僧玄奘がこの地を訪れたときにも依然として大仏は美しく装飾されて金色に光り輝き、僧院には数千人の僧が居住していたという。

 その後、イスラム教徒勢力の侵入がこの地にも及ぶようになり、次第に仏教は消滅していった。バーミアンのイスラム化が完了したのは9世紀頃だと言われている。11世紀初頭にこの地を征服したガズナ朝のマフムードによって石窟寺院遺跡が略奪を受けたとも言われる。大仏も装飾が剥がれ、顔面部が崩落するなど長年にわたる放置のために大きな被害を受けたが破壊はまぬがれ、偶像崇拝を否定するイスラムの時代を通じても依然として多くの壁画が残されていた。

 その後もバーミアンはヒンズークシ山中の中継都市として政治的・経済的重要性を失わず繁栄し続けたが、13世紀にモンゴル帝国の軍隊によって、町は徹底的に破壊されたと言われる。これによって千年以上繁栄を続けてきたバーミアンの町は全くの廃墟となった。

 やがてハザラ人が住み着くようになってバーミヤーンの町は再建され、18世紀にはドゥッラーニー朝(アフガニスタンの前身)の一部となった。アフガニスタンはバーミアン渓谷に、バーミアン州を置いた。

 1979年のソ連アフガニスタン侵攻。その後内戦が始まると1990年代後半には北部同盟に属するハザラ人勢力とパシュトゥーン人タリバンとの激しい戦闘の最前線となった。1998年、タリバンの攻勢の前にバーミアンは陥落した。

 2001年2月26日、タリバンイスラム偶像崇拝禁止の規定に反する大仏を破壊すると宣言、2体の大仏を爆発物によって破壊した。3月12日、ユネスコは3体の大仏がターリバーンによって破壊されたことを確認し、爆発によって大仏が崩れさる様子を撮影した映像は世界中に配信されて大きな衝撃を与えた。しかし、同年の対テロ戦争をきっかけにしたアメリカのアフガニスタン侵攻を受けて11月11日にハザラ人勢力が奪還した。

引用・参照
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