32-15 仏像と大乗仏教

32-15 仏像と大乗仏教

2006/8/20(日)


 仏像の製作は、紀元1世紀の初め頃、ガンダーラやマトゥーラにおいてはじめられたといわれている。ガンダーラやマトゥーラで製作された仏像は、数多く発掘されている。その多くは釈迦如来像、釈迦菩薩像、弥勒菩薩像、観音菩薩像である。そこには、阿弥陀仏像や独立の観音菩薩像が見当たらない。弥勒菩薩像は独尊タイプのものもあるが、観音菩薩像は三尊形式で、釈迦如来像の向かって左に弥勒菩薩像、右に観音菩薩像の形式をとっている。弥勒菩薩像は手に水瓶を、観音菩薩像は蓮華を持っている。

 仏像が造られ始めた時期と大乗仏教の興起の時期が重なる。したがって、大乗仏教の興起が仏像の製作と深い関係がある、さらにいえば、大乗仏教の運動の中から仏像の製作が始まったのではないかと見られている。しかし、発掘される仏像の種類をみると、疑問である。

 大乗仏教は諸仏、諸菩薩の世界である。仏像製作が大乗仏教の影響下でなされたのであれば、阿弥陀如来薬師如来などの如来像、独尊の観音菩薩像などが多く造られるはずである。ところがこの時代に作られた仏像の種類は少ない。釈迦如来像、悉多太子像、弥勒菩薩像などである。この時期は大乗仏教が興起した時代である。観音信仰と阿弥陀信仰が大乗仏教の初期の信仰として成立している。ところが観音菩薩像や阿弥陀如来像がほとんど出土していない。

 ガンダーラの発掘でもう一つ気になることがある。玄奘の『大唐西域紀』に、ヒンズークシ山脈南麓のカピシに立ち寄った記述がある。カピシはそこには大乗仏教の僧院や大乗・小乗兼学の僧院があることが記されている。玄奘ガンダーラに立ち寄ったのは七世紀の初めである。すでにクシャン朝はなく、その後に北インドを統一したグプタ朝もすでに滅びた後だった。しかし、その時代にもなお、小乗仏教は残っている。玄奘が訪れた他の地域には小乗のみの寺院も多い。大乗仏教小乗仏教にとって変わったというようには見られない。

 大乗仏教の興起と運動の広がりを過大評価しているのではないか。おそらく大乗仏教が興起した後も、小乗仏教説一切有部などの部派仏教)は依然として、社会の中心的な勢力を占めていた。貴族や裕福な商人層の多大な寄付を受け、経済的にも恵まれていた。その力ゆえに壮大な伽藍が建てられ、伽藍内部の壁画が描かれ、仏像が飾られていた。

 仏像が盛んに作られたガンダーラやマトゥーラの地では小乗仏教が栄え続けた。ガンダーラで新興の商人層や王侯貴族に支持された小乗仏教は彼らの寄進を受け、大きな経済力を持つに至った。僧院はかつての祇園精舎のような質素な集団生活と修行の場ではなくなり、壮麗な伽藍が造られ始めたのではないか。だからといって、仏像発生の謎が解けるわけではない。私は、仏伝の発展が大きく寄与していると考える。仏伝のなかで、仏陀転輪聖王と同列の関係に扱われるようになる。転輪聖王のイメージが先に形成され、仏陀も同じイメージで捉えられるようになる。これが、仏像制作の始まりになると考えられる。

 勿論その背景には仏身観の変遷がある。釈迦が歴史的に実在した存在から真理の当体へという変化である。実在的な存在から普遍的な存在への変身である。すでに、この頃、釈迦の本生譚はつくられ、その中に燃燈仏が登場する。弥勒信仰も成立し法身仏の仏身観はすでに成立していた。仏身観の変遷として興味があるのは、神変図である。肩から炎を噴出し足元から水を噴出している釈迦像が現れる。これは、釈迦が超人的な力を持っているという考え方をされ始めたことを意味する。さらに、その後、現れたのが、蓮の花に座す仏像である。釈迦の超人化はここで神格化の段階に至る。

 大乗仏教はこのような造寺造仏に走る小乗仏教の動きに対して「ブツダに帰れ」というのが大乗仏教の運動のはじまりであった。大乗仏教はむしろ造仏と伽藍の否定という要素を持っていたのではないか。