31-24 グプタ朝とヒンズー教

31-24 グプタ朝ヒンズー教

2006/9/30(土)


 三世紀になるとクシャン朝は衰退し、北インドは分裂状態に陥った。四世紀前半、かつてのマウリヤ朝の都であったパータリプトラのグプタ家(ビハール州の藩王の家)のチャンドラグプタ一世(位320~335頃)がビハール州で台頭し、ガンジス川中流域を征服し、「諸王の大王」と称し、分裂状態にあった北インドを再統一し、グプタ朝(320頃~550頃)を開き、パータリプトラを都とした。彼は即位した320年2月26日を紀元とする「グプタ紀元」を創設したが、この「グプタ紀元」は北インドで以後500年間にわたって使用された。

 チャンドラグプタ一世を継いだサムドラグプタは領土をパンジャーブ地方にまで拡大し、第三代の王チャンドラグプタ二世(位376頃~414頃)は、さらに領土を拡大し、デカン高原を除くほぼ全域を支配下に置き、グプタ朝の最大領域・全盛期を現出した。チャンドラグプタ二世は「武勇の太陽」と名乗り、中国ではその漢訳である「超日王」の名で知られている。

 クシャン族をはじめ、インドにおける全ての外国人勢力を追い出したグプタ朝のもとでは「インド人のインド」という民族意識がもりあがり、グプタ朝マウリヤ朝の復活を理想とした。チャンドラグプタ二世の時代にインド古典文化の復興の傾向が強まり、インド古典文化は黄金時代を迎え、サンスクリット文学も栄えた。サンスクリット語梵語と訳されるが、古代インドで使われた文語であり、俗語に対する雅語である。

 グプタ朝の時代、ヒンズー教の台頭によって民間の仏教は急速に衰えた。ヒンズー教が人々の生活に密接に結びついていたのに対し、仏教の寺院は僧侶の修行の場であり、教義の研究の場であって、民衆との結びつきがほとんどなかったことが大きな原因である。このため民衆の間では仏教は衰えた。しかし、仏教の教義の研究は依然として盛んであった。

 インドで仏教が繁栄したのは、クシャン王国までのようだ。西ローマ帝国が衰退していくにしたがって、インドの商業も衰退していき、農業の権威が再び高まっていく。そうなると、農村部に根強く残っていた従来のバラモン教が復活することになる。バラモン教は、仏教やジャイナ教に対抗するために徐々に体系化されていき、五世紀ころまでにはシバ神を最高神としたヒンズー教へと展開していった。

 ナーランダ僧院は、五世紀にグプタ朝のクマラグプタ一世が僧院を建てて以来仏教教学の一大中心地として発展し、玄奘や義浄などの中国の僧をはじめアジア各地から僧侶が集まった。玄奘が六年間を過ごした七世紀前半には約1万人の僧侶がいて研究に励んでいたといわれている。

 仏教美術の面では、クシャン朝時代に栄えたギリシア的な仏教美術であるガンダーラ美術にかわって、純インド的な仏教美術であるグプタ様式(グプタ式美術)が完成し最盛期を迎えた。特にアジャンターやエローラの石窟寺院の仏像や仏画は有名である。

 有名なアジャンターの石窟寺院は、前三世紀頃から後八世紀頃にかけて、タプティー川の支流に臨む玄武岩丘陵の中腹を掘ってつくった29の石窟に僧院がつくられ、多くの仏像が刻まれ、壁に仏画が描かれた。六世紀から七世紀の壁画が多いが、その中にはグプタ様式の代表的な作品が多く含まれている。その画風は中央アジア・中国を経て日本に伝わった。法隆寺金堂の壁画の観音菩薩像はアジャンターの流れを汲むものとして有名である。

引用・参照
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kodai/36-india3.html