構想メモⅠ

00-07 構想メモⅠ(インド)

2007/5/4(金) 午前 5:27 000 はじめに 歴史

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 「散策」という程度のつもりであったが、仏教史の見直しの提言というところまで関心がすすんでしまった。メモは、インド、中国、日本と三つに分けた。このメモは今後も随時加筆訂正してゆくつもりです。

■ インドの大乗仏教
01.大乗経典の多くはインドで作られたが、インドでは小乗仏教が大勢を占め、大乗仏教は少数派であった。
02.大乗仏教は独自の教団を造ることなく、部派仏教の教団の中で、一学派として存在していた。
03.大乗経典を作成したのは、部派に属していた出家僧であった。
04.大乗を信奉する僧も、戒律を守り、同じ修行方法に従事する限り、部派の教団の中で存在することができた。
05.大乗仏教は、龍樹によって、中観仏教として理論化されてはじめて、大乗仏教という流れになった。
06.龍樹が「空」でもって初期大乗の諸経典を体系化・理論化する以前においては、大乗の諸経典の信奉者たちは「大乗仏教」というグループに属しているという意識を共有していただろうか。
07.インドにおいてわずかに存在した大乗仏教は、龍樹や世親など論師の著した大乗仏教の論書の学習が中心であった。大乗の僧院の戒律も禅観法も小乗の場合と同じで、大乗独自のものはもたなかった。
 ←鳩摩羅什カシュガルで学んだのは論書である、ということに着眼したい。
08.インドでは大乗教団というものは存在せず、大乗の戒律、大乗の禅定法も成立しなかった。
09.仏教の支持層は常に新興勢力であった。ヒンズー教身分制度であるカースト制度バラモンの権威と衝突する新興の王侯貴族や商人、外国人に支持された。
10.仏教の隆盛の時代にも、仏教はインドの生活の中にまで入ることはできなかった。葬式やまじないと距離を置いたからである。
11.バラモン教は紀元後、民間宗教の要素を取り入れてヒンズー教となり、インドの民衆、とりわけ仏教には縁が少なかった農民の中に入っていった。
12.ヒンズー教が盛んになると、仏教はヒンズー教の中に取り込まれていった。
13.仏教の普遍性は、
 1.教えが万人に平等に開かれている
 2.その土地の生活や文化と切り離されている
 ところにある。
14.この普遍性ゆえに、仏教は「アンチ土着宗教」として、行く先々で新興の政治勢力や商人を支持者とすることができた。マウリア朝を立てたチャンドラグプタはシュードラの階級であったといわれる。また、ローマ商人はヒンズー教では受け入れられなかった。
15.「アンチ土着宗教」として役割は、インドだけでなく、中国の五胡十六国の時代にも、また、日本の蘇我氏聖徳太子の時代にも大きな役割を果たした。

■ 仏像の成立
01.仏像は小乗仏教の発展の過程で作成され、大乗仏教の興起とは無関係であった。
02.最近の碑文研究によって、部派仏教の僧が寺院や仏塔の建設、葬式などにかかわっていたことが明らかになった。
03.そもそも、大乗の「空」と出家教団、戒律、仏像とは論理的に整合しない。
04.仏像は造像に先立って、イメージの成立が先行した。
05.マウリア朝のアショーカ王の時代が造像に果たした役割が重要である。
 インドの統一、西方文化との接触によって普遍的聖王の概念が成立
 転輪聖王の三十二相・八十種好のイメージが成立
 仏陀転輪聖王のイメージのパラレル化による仏陀のイメージの成立 
 ストゥーパ信仰・聖地巡礼 伝説(仏伝、ジャータカ)の成立、
06.クシャン朝の金貨にあらわされた仏陀像が最初の仏陀像である。仏陀像を作らせたのは、王である。聖なるものを形に表すことへの心理的抵抗(タブー)を最初に破ったのはクシャン朝の王である。
07.上からの改革というのが仏教の場合、重要な意味をもつ要である。
08.クシャン朝の王侯貴族・振興の商人の寄進が寺院やストゥーパ、仏像の制作にあてられた。
09.仏像の成立と経典の書写とは密接な関係がある。聖なるものをかたちに表すことのタブーが破られた点において、共通性をもつ。
10.アショカ王の法勅碑文は、聖なるものを形に表すことのタブーを打破するのに果たした役割は大きい。口伝で伝えられていた仏教経典を文字で書写されはじめたのは、これ以降ではないか。

■ 大乗仏教の興起と発展
01.大乗仏教の経典の作成は、経典の記述と書写の始まりと関連がある。書写された経典に対する信仰のようなものが流布されていたことが、大乗経典の出現を可能にした。
02.仏教は普遍性のある宗教で、土着の宗教と並存することができた。それは、インドでも、中国でも、日本でも同じであった。土着の宗教と相互に影響を与え合い、土着の仏教を再生するとともに、自らも土着化をしてきた。
03.仏教が今日、栄えている国においては、仏教の土着化が成功したことがその理由としてあげられる。葬式が仏教と結びついているかが、土着化のメルクマールとなる。
04.大乗仏教と仏像は中国において結びついた。この結合は、「般舟三昧」という中国独自の禅観法を作り出した。支婁迦讖の『般舟三昧経』の漢訳においての誤訳がこの結合を前提としたものであろうと思われる。
05.その後の中国の仏教の歴史は、大乗の戒律と禅観法の確立であった。インドには本来無かったものを求めたのであった。法顕のインドへの旅も戒律の入手が目的であった。道安が鳩摩羅什の到来を待ち焦がれていたのは、この二点についての疑義をただすためであった。
06.中国仏教は、この二点の穴埋めを成し遂げて、大乗仏教の国になった。その精華が智顗の「天台教
学」である。