構想メモⅡ

00-08 構想メモⅡ(中国)

2007/5/8(火)

 

■ 中国史
01.五胡十六国の時代を混乱の時代とのみ捉えるのは大きな間違いである。漢人の江南への移住により江南の稲作農業は大きくすすんだ。
02.五胡十六国のうち、次の国々が重要である。
03.前秦は北部の統一にほぼ成功している。道安はこの国に招致され活躍した。また、鳩摩羅什の招致も試みている。
04.河西地方は、前涼(301-376)、後涼(386-403)、南涼(397-417)、北涼(397-439)、西涼(400-421)というように五つの王朝が立ったが、敦煌漢人の支配が続いて比較的平穏を保った。
05.仏図澄は、後趙の石勒・石虎に軍師として重用されたクチャ出身の渡来僧。はじめて、出家を制度として認めさせ、出家者による教団の制度ができた。

■ 天台教学の成立
01.中国天台の成立の背景には、法滅や末法の思想がある。
02.鳩摩羅什の漢訳事業によって大乗仏教は中国に定着したが、仏教の堕落が同時に始まった。
03.仏教の危機の本質は権力の弾圧ではなく、仏教界内部にあった。
04.「空」がご都合主義的に取り入れられ、修行も無視された。
05.この頃、仏教は民衆の中にも入り始め、弥勒信仰が偽経の制作などを通じて広がる。また、後の浄土経や三階経につながる信仰も広がった。
06.天台の始祖たちはこの時期、修行法の確立、戒律の整備などに努めた。
07.智顗はこの流れを受けて、教理と修行法、戒律を一体とした天台教学を確立した。
08.天台教学の成立によって中国仏教は輸入仏教から離脱することができた。

■ 禅宗の画期性
01.中国仏教史において、禅宗の登場の意味は大きい。天台の登場に次ぐ画期をなしている。
02.天台はインドからの伝来した仏教の集大成であるならば、禅宗は中国の土着の思想である儒教道教の大きな影響を受けた中国固有の仏教である。

■ 敦煌の仏教と莫高窟
01.敦煌は比較的初期の時代から、漢人の入植が盛んになされ、漢文化が栄えていた。
02.五胡十六国の時代にも、中原の混乱に比べて、政治的には安定していた。
03.仏教も中原の影響がむしろ大きく、そこに西域やチベットの影響が加わったと見るべきである。
04.莫高窟の最初期の第257窟は奥の中心に弥勒菩薩像の倚像があるが、これは中原の弥勒信仰の反映である。
05.莫高窟の石窟の多くは修行のための石窟というよりも、先祖の供養や功徳のために造られた。いわばモニュメントとして造営されたものである、ということができる。
06.モニュメントしての石窟は龍門の石窟の場合により明らかである。