構想メモⅢ

00-09 構想メモⅢ(日本)

2007/5/8(火)

 

■ 最澄天台宗
01.中国における「天台」と最澄の「天台」の登場の意味はパラレルに考える必要がある。南都六宗奈良時代を仏教の移入期とすれば中国での魏晋南北朝時代に匹敵する時代であるといえる。天台智顗も最澄も仏教の整理と体系化という点で同じ役割を果たしている。
02.その天台から生まれた「浄土真宗」は仏教のわが国への土着化ということができる。
03.南都六宗には、天台宗浄土教も含まれていない。天台はすでに過去の学派とみなされたのだろう。また、浄土経は学派とはみなされなかったのだろう。
04.南都六宗は、小乗仏教も混在している。また、禅観法なども確立したものをもっていなかった。
05.この「天台」と「浄土真宗」という日本仏教史の二度の画期に登場したのが、聖徳太子であった。これが「和国の教主」の意味である。
06.インドと中国の仏教史はパラレルに捉えるべきではない。他方、中国と日本の仏教史は、パラレルに捉えるべきである。キーワードは「天台」である。
07.仏教とは何か、日本の仏教とは何か、がもう一度問われることになる。仏教の普遍性と土着の神との融合、という観点が必要であろう。

■ 東南アジアの仏教
01.上座部仏教大乗仏教もインドで定着できなかった仏教という点で意外な共通性をもつ。
02.土着の宗教との並存と相互交流、葬式への係わり合いなどをみるとこの点でも意外な共通性がある。
03.出家と戒律の問題は大きな違いとして残る。

■ 聖徳太子
01.太子の仏教は、智顗の「天台教学」確立以前の北魏成立以後の南北朝時代の仏教教学が前提となっている。
02.その時代は諸説が入り混じっている状態であったが、仏教の理解はむしろ容易であった時代ということができる。
03.仏教が難しくなったのは、天台教学が成立して、さらに華厳哲学や唯識が加わって、仏教の勉強はより難解なものになってしまった。
04.太子が接した中国の仏教はまだ理解が容易な時期の仏教であった。
05.斑鳩の宮の規模は、飛鳥全体の大きさに匹敵する大きなものである。中宮寺法輪寺法起寺などは法隆寺の東または東北のかなり離れたところにある。
06.斑鳩の宮は飛鳥の甘樫の丘から一望できる位置にある。
07.斑鳩の宮の造営は摂政に就任直後から予定されていたようである。
08.斑鳩の宮の規模、位置、計画の時期から考えて、太子に政治的失脚があったようにはおもわれない。
09.大和川斑鳩の南から生駒山地の南端をとおって大阪平野に流れ込んでいる。しかし、急流で途中には瀬もあり、船を利用した水運には向かない。当時の難波とのメインルートはむしろ二上山の南側をとおる竹内街道であったと考える。
10.斑鳩の宮の造営は、太子が後半生を仏教の研究の場所確保のためになされたのではないか。
11.斑鳩の地の選択の理由はいろいろ考えられる。
 1.物部氏が滅びた後の蘇我氏の進駐
 2.太子のスポンサーであった有力豪族の支配地を背後に控える。
 3.開かれた大規模の土地が、奈良盆地では他に見つからない。
 4.飛鳥からも眺望がきき、飛鳥との一体性が保たれる。
 5.背後に瀬田丘陵があり、大和盆地の中でもっとも水が豊富である。
 7.斑鳩の地は瀬田丘陵のもっとも南の松尾山の南面の山麓に位置し、南に向いた寺院を建築できる。
 8.北側に山、左右にも山、前に川という当時伝わっていた風水思想にぴったりの土地柄である。
 9.キトラ古墳など飛鳥の南西の地に南向きの古墳が作られているが、小さな丘を利用している。
10.風水の思想は、藤原宮の造営にあたって採用されている。
11.藤原不比人は、平城京遷都に先立って平城山の南に自分の住まいを移転している。
12.不比等と太子の移転には共通性があるのではないか。 

■ BLOGの意図
01.インドの仏教史が中国の仏教史の展開の先取りであった、というこれまでの説に対する疑問の提起がこのブログの核心にある。
02.また、インドにおける大乗仏教の教団も存在しなかった、のではという疑問も提起している。
03.そこまでは、グレゴリー・ショペン博士の見解と同じである。しかし、決して受け売りではなく、このように考えざるを得ない、というところまで到達していた。
04.ただ、これまでの歴史の見方に対して、余りにも突飛な考えで、発表をためらっていたところで、諸ペ博士の本に出会った。このときの喜びは大きなものであった。
05.わたくしはこの考え方を数歩先に進める必要があると考えた。
06.インドにおける仏像の成立の経緯についても解明の手がかりを提供してくれているように思われる。
07.大乗教団の不在は当然ながら、仏像の制作は部派仏教の教団によってなされたことを意味することになる。
08.中国仏教の展開にも新しい視点が提供された。大乗仏教は中国において成立した、といわなければならない。また、無関係であった仏像と大乗仏教は、中国においてはじめて結びついた。
09.天台智顗の天台教学は、中国仏教をそして大乗仏教を完成させたものである。
10.鳩摩羅什の漢訳を通じて取り入れた「空」を教学の中心に取り入れ、禅観法と戒律を補って天台教学は完成した。
11.禅観法と戒律を補うにあたって、偽経の果たした役割は大きい。
12.浄土教も中国で成立した大乗仏教である。
13.仏教の伝来と受容を、土着の神との相克の中で捉えるというのは、名古屋大学の教授であった宮治先生の方法論であったと思うが、中国での大乗仏教の成立を見るのにもこの視点は重要と考える。
14.中国の禅宗の成立は、天台教学の成立に比すべき画期的事件である。仏教が中国の土着の神と融合したのが、禅宗であると考えられる。
15.中国の仏教史とインドの仏教史がパラレルな関係にないことはこのブログの出発点であるが、中国の仏教史と日本の仏教史の意外なパラレルな関係には、気付いていただきたい。
16.中国の仏教の受容期は、魏晋南北朝時代である。日本では奈良時代が丁度この受容期にあたる。南都六宗のなかには、小乗仏教もはいっており、大小未分化であった。また、各宗派において戒律も修行法も確立していなかった。
17.この状態は、まことに、魏魏晋南北朝時代の仏教の状態とそっくりである。最澄が天台を輸入したのは、天台こそがその総合性、体系性ゆえに、奈良仏教を批判的に継承し、日本の大乗仏教を完成させるためにもっとも有効であると考えたからである。
18.空海密教も仏教の体系化・総合化を目指すものであった。
19.大乗戒壇の意味は、このインド、中国、日本の仏教史の非パラレル、パラレルな関係というネジレの中から生じたものである。
20.最澄から見れば、中国大乗仏教の戒律は小乗仏教の戒律を接木的に使う不徹底なものであった。中国の仏教のほころびを見つけてしまったのである。
21.親鸞浄土真宗は、この天台を母として生まれた。日本の土着の神と仏教が融合した形と言えるだろう。中国の禅宗の成立とパラレルな位置にあるといえないだろうか。
22.こうしてみてくると、聖徳太子の仏教の先見性とそれが日本の仏教の地下水脈の役割を果たしてきたことがわかる。
23.太子信仰は、最澄においても、親鸞においても、重要な役割を果たした。
24.仏教史の新しい見方はどのような意味があるのか。仏教の歴史がわかりやすくなることはあきらかである。
25.日本の仏教の独自性がよりあきらかになると思う。それは、またこのような日本の仏教を創造してきた諸師の努力を再認識することになる。
26.また、日本仏教の独自性を認識することによって、逆に、東南アジアやスリランカに受け継がれてきた上座部仏教との対話も可能になるのではないかと思う。