仏教史の再構成

00-04 「仏教史の再構成」の試みとは

2006/11/17(金)


■ はじめに

 『仏教の歴史散策』のテーマは仏教の歴史の見直しの提案の試みである。インド伝来の仏教が中国で変容しつつ定着した、というのがこれまでの捉え方であろう。どうやら、「大乗仏教は中国において成立した」ということを認めなければならない。大乗経典の多くはインドで作成された。特に初期の大乗経典といわれる、般若経典群や法華経などはインドで作成された。しかし、インドで大乗仏教の運動が始まり、小乗仏教に取って代わるほどの大乗教団ができたかというと、どうもそうではないのである。

 ショペンの碑文研究の成果はこのことを示している。遺された碑文からは大乗仏教の教団の存在をみつけるのは難しい。後の時代の法顕(五世紀初め)や玄奘(七世紀)の旅行記(『法顕伝』『大唐西域記』)の記述を見ても、インドでは小乗仏教がなお支配的であったことがうかがえる。


最澄の天台の再評価

 大乗仏教に関するインドと中国の位置づけを上記のように考えると、中国の仏教史ばかりでなく、さらには日本の仏教史の見直しも必要となってくる。日本の仏教に関することからのべることとする。

 最澄がなぜ天台に着眼したのか。天台は中国では200年も前の隋の時代に成立した教学である。最澄のこの天台への着眼を、「アナクロニズム」とさへ評した人もいる。また、最澄の一途な真面目さの故であった、と個人的資質に即して説明する人もあった。しかし、歴史の流れというものをみなければならない。

 奈良時代は、南都六宗を始めとして当時の中国や朝鮮から移入された諸種の宗派が栄えた。奈良仏教は未だ輸入仏教の域を出ていなかった。六宗のうちに、小乗仏教系の「成実宗」や「倶舎宗」がふくまれているなど、大乗・小乗が未分化の状態である。

 最澄は、南都六宗に代表される奈良仏教の問題点を正しく理解していた。小乗と大乗が未分化で、大乗仏教として未完成であった。大乗仏教に相応しい戒律も、禅定法も確立していなかった。天台の移入によって日本の仏教にも禅定法が確立された。しかし、最澄にとっては「大乗の戒律」が未解決の問題として残った。


■ 他の問題への波及

 しかし、「インドにおいては大乗仏教が運動や教団として定着することがなかったと」とみることは、仏教史の他の諸問題についても再考を迫ることにもなる。

 ◇ 仏像の制作

 仏像の制作の始まりの時期は一世紀初頭であり、大乗仏教の諸経典の成立した時期と重なる。したがって、大乗仏教と仏像制作が密接な関連があるという考え方がある。しかし、小乗仏教の発展のなかで、仏像が制作され始めたとみるべきである。
 大乗仏教の特徴は多仏思想である。釈迦のほかにも阿弥陀如来薬師如来などの仏の存在を認める。しかし、阿弥陀仏像の銘のある台座の部分が一例のみ残る他は大乗の仏像と思われるものは、インドや西域では見つかっていない。

 ◇ 大乗の戒律と禅定法

 インドで大乗教団が成立しなかったということは、「大乗に相応しい戒律と禅定法」も未確立であった、ということになる。ところが、当時の中国においてはそうは考えなかった。インドには大乗教団が成立しており、中国はその受容に努めなければならない、と考えた。

 結果的に、その努力は天台教学の確立という形で成功した。しかし、中国において、「大乗に相応しい戒律と禅定法」をどのようにして「受容」したのか。「偽経」の問題の遠因もここにあると思われる。中国仏教を大乗仏教にしたのは、鳩摩羅什である。彼は漢訳事業に際して、龍樹の「空」の思想を持ち込み、『中論』や『大智度論』などの論書も訳したばかりでなく、『法華経』や『無量寿経』などの経典の訳も龍樹の中間思想の影響のもとになされた。鳩摩羅什は、大乗仏教という「宝」を中国にもたらしたが、その大乗仏教は「未完成」であった。大きな宿題を中国に残したのである。