天台から

00-05 天台へ! そして天台から!

2006/11/27(月) 午前 10:25 000 はじめに 歴史

facebookでシェア
twitterでつぶやく


■ はじめに

 先ほど、標題の一言メッセージを「天台へ! そして天台から!」と書き替えた。ようやく、書きたいことが見えてきた。最初の「天台」は天台智顗の確立した中国の天台教学、後の「天台」は最澄の開いた日本の天台宗のことと理解していただきたい。便宜上、中国の天台を「天台教学」、日本の天台を「天台宗」と呼ぶこととする。


■ 天台へ!

 中国では漢の時代に仏教が伝来し、西域から渡来僧や仏典が入ってきた。すでに二世紀の後漢の時代には仏典が漢訳され、その後陸続と渡来僧が訪れ、仏典の漢訳も数を増した。五世紀の初頭に、亀茲国(きじこく)出身の鳩摩羅什(くまらじゅう)が後秦の姚興(ようこう 在位394~416年)に都長安へ招かれた。そこで仏典の一大漢訳事業が行われ、初期の大乗経典のほとんどが揃った。

 鳩摩羅什は、大乗と小乗の別を明確にし、中観仏教をもたらし、大乗仏教の優位を定着させた。しかし、大乗の戒律、大乗の禅定法はいまだ十分に伝わらず、他方で、中観仏教の「空」を虚無的に理解するものも現れた。

 大乗の戒律・大乗の禅定法というのは本来インドにおいても確立しておらず、中国においてその穴埋めが行われたといってよい。天台教学は戒律、禅定法の穴埋めをし、戒・定・慧(かいじょうえ)の三学を備えた大乗仏教を確立したということができる。

 仏教が中国に伝来してからの多くの人々の営みが天台教学として花開いたのである。「天台へ!」というのはこのような意味である。


■ 天台から!

 中国の天台教学の総合化の試みが日本でも必要とされた。六世紀初めに朝鮮の百済から仏教が伝来され、七世紀以降は遣隋使や遣唐使の派遣によって中国の新しい仏教が次々ともたらされた。その成果が南都六宗である。その南都六宗を総合化し、戒律と禅観法を確立し、大乗仏教としての日本の仏教を確立しようとしたのが最澄の「天台宗」である。中国の魏晋南北朝時代の仏教と奈良時代の仏教は、いまだ体系化・総合化される前の揺籃期の仏教の時代という点で似ているということはできないか。 


■ 天台の流伝

 中国で天台教学が成立したのが六世紀の末、その天台教学が日本に流伝し、天台宗が成立したのが九世紀の初頭である。その間にあるのが二世紀という歳月である。日本では埋もれてしまっていた法華という水脈を掘り当てたのは最澄である。

 最澄は、鑑真の一行がもたらした天台の論書に遭遇する。最澄はそこに展開されている天台教学にひかれた。なかでも最澄がひかれたのが天台止観である。奈良仏教は華厳宗などを除くと禅観法は確立していなかった。天台教学は完成された禅観法をもっていた。

 法華という水脈は、聖徳太子につながる水脈である。最澄は中国天台を「再発見」し、同時に日本の法華の伝統も再発見したのである。