三国伝来の再考

00-06 「三国伝来」の再考

2007/5/2(水) 午後 3:50 000 はじめに 歴史

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 仏教の歴史において、インドの仏教をどのように位置づけるかについて見直しが必要となってきている。仏教はインドで釈迦によって始められた。しかし、釈迦の仏教は今私たちが接している仏教とはずいぶん異なったものであった。まだ、経典も、仏像も、大乗仏教もなかった。
 
 釈迦の仏教はその後、インド全体に広がり、さらには西北インドにまで拡がり、中国に伝わり、さらに中国や朝鮮を経て日本に伝えられた。そして、今私たちが日本において接しているような仏教となった。このような経緯から、わが国仏教を「三国伝来の仏教」ということがある。

 しかし、今日、この伝来の事情をつぶさに見てゆくと、見直しが必要となってきているように思われる。大乗仏教に関していえば、インドで発芽した大乗仏教を育て開花させたのは中国ではないのか。初期の般若経法華経などの経典はインドで作成された。また、龍樹の中論もインドで作成された。しかし、インドでは大乗の教団は定着することはなかった。

 また、大乗仏教が興起したと伝えられる頃、インドではガンダーラやマトゥーラで仏像が制作され始めた。仏像の制作の多くは、当時有力であった説一切有部派のもとでなされたものである。説一切有部派有力なスポンサーを抱え、寺院やストーパの建造にもかかわっていて、仏像の制作も可能であった。大乗仏教の運動は細々としたものであり、仏像を制作するような財力は持っていなかったであろうし、初期般若経典の空思想と仏像は相容れないものと考えられる。

 仏教の中国への伝来は、仏教に革命的変化をもたらした。インドでは大乗仏教小乗仏教に取って代わって主流になっているように伝えられ、さらに、大乗仏教と仏像が一体的関係にあるようにつたえられた。中国の仏教が大乗一色になったのは、五世紀初頭の鳩摩羅什の訳業以降のことである。これは鳩摩羅什に、自ら傾倒した大乗仏教を中国という新天地に展開したいという野望があったこともあろう。

 しかしながら、大乗仏教の定着は仏教を受け入れる中国側の事情の方が大きいのである。中国では、仏教を老荘思想を通じて受け入れようとした。大乗仏教の「空」と老荘思想の「無」との間に親和性があった。中国で「空」を正しく理解できるようになるには。鳩摩羅什の訳業の後も更に一世紀近くの時間を費やしている。しかし、老荘思想の地盤があって仏教ははじめて受容されたといってよい。老荘思想と仏教は、その後も相互に影響を及ぼしあっていった。唐の時代の晩年になると、禅宗が盛んになるが、禅宗は仏教が老荘思想の深い影響のもとで成立したといえる。

 仏教が中国の土着思想との相克のなかで、中国に受容された。インドでは花が咲かなかった大乗仏教は、この相克のなかで中国に根付き、花を咲かせることができたのだ。インドから中国への仏教の伝来は、むしろ断絶と創造の側面の方が強い。

 中国で花開いた大乗仏教が日本に伝来された。ここで、大乗仏教はもう一つの飛躍を遂げることになる。中国の大乗仏教は、戒律はインドから伝えられた小乗仏教の戒律をベースにしていた。その点でまだ、インド仏教の痕跡を残していた。しかし、最澄が中国の大乗仏教を日本に受容する段階で、この痕跡も消し去ってしまった。「大乗の戒律」をつくってしまった。このことは、その後の日本の仏教を「戒律のない」仏教にしてしまうことにもつながるのである。

 三国伝来といわれるが、実際は「断絶と創造」が行われた。