200-24-04 最澄の再評価

24-04 最澄の再評価 

 最澄(767~822年)は、・・・近江国滋賀に生まれ、俗姓は三津首(みつのおびと)。12歳で寺に入り、19歳で授戒。しかし奈良仏教の世俗化に失望、人生の無常をも感じて、わずか3ヶ月にして奈良から京都比叡山に逃れた。以後13年間にわたって草庵にこもり、仏教修行と経典の研究につとめた。788年32歳にして、法華一乗思想の道場として比叡山根本中堂を建立。法華経及び天台思想の講義を始めるにいたる。804年38歳のとき入唐、8ヶ月の間学び、帰朝後開宗した最澄は、それまでの、国が僧侶の認可を与える国立戒壇を否定し、大乗戒壇建立を主張して南都諸宗と対立し独自の戒壇を設ける。

 このとき著したのが“一隅を照らす者は、これ国宝なり”という有名な言葉がみられる「山家学生式」である。他に「顕戒論」「守護国界章」など。866年伝教大師と諡(おくりな)される。

 鎌倉仏教の特徴と考えられている、実践面での易行化の源流は最澄にある。以下に見る最澄の確立した一乗主義や仏性論こそが鎌倉仏教の足場となった。

 最澄に始まる天台宗では、円・戒・禅・密の四つが統合されているとされている。天台の教学は中国の智顗が確立したものであり、法華経を中心にした理論と、止観という実践を含む。最澄の代表的な思想的活動を挙げれば、法華経にもとづく一乗主義をめぐる、対徳一論争と、大乗戒論争である。

 対徳一論争は、法相宗の徳一との論争で、法華経理解をめぐるものである。法華経大乗仏教による修行も、小乗仏教による修行も、どちらも仏が衆生の理解に合わせて説いたものであり、最終的な真理は一つであり、どの修行も唯一の真理に帰着する、と説いている。最澄はこの一乗説を採っているが、法相宗の立場は、衆生には能力の違いがあり、誰でもが悟りを開けるという説を批判する。

 法相宗の徳一との論争を最澄は晩年まで繰り広げた。鑑真により日本の戒律制度は確立したが、その後は天下三戒壇のいずれかで受戒することが必要であった。このときに授けられる戒は部派仏教によるものであったため、最澄大乗仏教である以上、大乗戒による戒壇を建立すべきであり、その戒壇比叡山に設けたいと考えた。

 最澄が活躍したのは平安時代の初期、九世紀の初頭の時代である。中国において天台智顗(538?~597)が天台法華教学を確立したのは六世紀の終わり頃、隋の時代であった。日本に移入されたのは実に二世紀を経てからである。その理由については大変興味がもたれるところである。

 梅原猛は、最澄の天台導入をアナクロニズム(時代錯誤)と称した。しかし、私は最澄の天台を時宜にかなったものであったと積極的に評価すべきと考える。その理由は次のようなものである。

1.南都六宗三論宗成実宗法相宗倶舎宗律宗華厳宗)は、大陸・半島からもたらされた中国仏教の関係宗派を淵源として成立したもので、おもに宗義の解明のための研究が中心であった。

2.したがって、禅定法なども伝えられていなかった。

3.戒律の伝来も不十分であり、鑑真によって伝えられた戒律は小乗仏教のそれであり、大乗仏教の戒律を確立する必要があった。

4.上記の三つの状況は、天台智顗の登場する南北朝時代末期の中国の様子に酷似する。法華の一乗思想による仏教の体系化、禅観法の移入、大乗戒の確立が必要とされていた。

5.大乗戒は、中国にもないものを作り上げたのだが、中国の不徹底を見抜いたのである。

6.この一大事業を、聖徳太子になぞらえることによって成し遂げた。