24-07 大乗戒壇の設立と小乗仏教との決別

24-07 大乗戒壇の設立と小乗仏教との決別

2006/10/19(木)

 
 最澄は自分の宗教の最終目的を、仏法によって国家をまもること(鎮護国家)においていた。そのために、天台宗にも戒壇が必要だと考えた。その当時、戒をうけるのは小乗戒を基礎とする南都の戒壇でなければならなかったため、最澄は「山家学生式」を提出して比叡山に大乗戒にもとづく戒壇を建設する許可を朝廷に願い出た。これは南都仏教側からの猛烈な反論をうけたが、彼は「顕戒論」(3巻)をあらわして逐一反駁(はんばく)するなど、大乗戒壇の設立に全精力をかたむけた。しかし、彼の生前にはその努力はみのらず、最澄は822年比叡山の中道院でなくなった。結局大乗戒壇設立の許可がおりたのは、没後7日目のことであった。

 日本の仏教が小乗仏教と決別したのは、最澄(767~822年)が天台宗を確立したときである。より正確に言えば、比叡山に「大乗戒壇」が設立されたときである。最澄は、小乗仏教と他の大乗仏教を一乗思想によって包摂し、大乗仏教独自の戒律(大乗戒)と戒壇を備え、小乗仏教と決別したのである。