24-05 徳一との論争

24-05 徳一との論争

2006/10/16(月)


 最澄密教修得の不十分さを自覚し、812年(弘仁3)高雄山寺におもむいて空海から灌頂(かんじょう)をうけ弟子になったが、その後決別する。814年筑紫国にいき、翌815年には関東地方を巡行した。このころ、会津にいた法相宗の学僧徳一が「仏性抄」をあらわして天台宗を批判したため、最澄は817年「照権実鏡(しょうごんじっきょう)」を書いて、これに反論した。以後天台宗法相宗の教義をめぐり数年にわたって論争がつづけられた。

 徳一は人間には小乗の教えにたつ人、大乗の悟りをひらく人、悟りをひらくことのできない人の区別があるという三乗思想を主張した。これに対して最澄は、小乗の教えも大乗にみちびくための方便であって、仏教によってすべての人が悟りをひらけるという一乗思想を展開した。

 最澄の代表的な思想的活動を挙げれば、法華経にもとづく一乗主義をめぐる、対徳一論争と、大乗戒論争である。対徳一論争は、法相宗の徳一との論争で、法華経理解をめぐるものである。法華経は、大乗仏教による修行も小乗仏教による修行も、どちらも仏が衆生の理解に合わせて説いたものであり、最終的な真理は一つであり、どの修行も唯一の真理に帰着する、と説いている。最澄はこの一乗説を採っているが、法相宗の立場は、衆生には能力の違いがあり、誰でもが悟りを開けるという説を批判する。法相宗の徳一との論争を最澄は晩年まで繰り広げた。