200-24-11 道元の疑問

200-24-11 道元の疑問

 道元は、わが国曹洞宗の開祖である。その道元が出家したのは建暦二年(1212)、数えで十三歳のときのことである。道元は先ず母方の叔父、良観法印を頼り、その仲介で比叡山横川(よかわ)の千光坊に入った。そして翌年、時の天台座主公円について出家入門の得度式を挙げる。しかし、まもなく道元は求法上の一大疑問に行き当たり、真剣に悩み始めた。

 「顕密二経共に談ず、本来本法性、天然自性身と。若し此くの如くなれば、即ち三世の諸仏、甚に依ってか更に発心して菩提を求むるや」

 これが少年道元の抱いた一大疑問であった。大乗仏教では、「一切衆生悉有仏性」といい、人間は生まれながらにして誰でも仏性を備えていると説く。天台の本学思想は、さらにその立場を発展させ、人間は修行してはじめて覚る(如覚 しかく)ものではない、すでに生まれたときから覚っているのだと主張する。それが大乗仏教の中心思想とされてきた。

 生まれながらにして覚っているのならば、人はなぜ発心し、修行に努めなければならないのか。修行する必要などまったくないのではないか。他の鎌倉新仏教の祖師、たとえば親鸞末法の今という時代を重視し、能力も機根も劣る末法の凡夫に最もふさわしい教えは何かという疑問から求法のスタートを切った。また、日蓮は、末法の時代だからこそ正法を信じなければならないという立場に立ち、総数五千巻とも七千巻ともいう膨大な経典の中から、釈迦の教え(正法)を伝える経典を探し出そうとした。

 これに対して道元は、大乗仏教の中心思想そのものが内包する矛盾に目覚め、そこから独自の求道の緒についたわけだが、この矛盾の超克は、そのまま、道元の生涯を賭けた課題となる。


 引用は以上である。道元はまことに「大乗仏教の中心思想そのものが内包する矛盾」に目覚めたといえる。中国では、鳩摩羅什が中観思想の大乗仏教をもたらした後、続いて如来蔵思想がもたらされた。そこに凡夫の悟りへの可能性も開かれた。しかし、いかなる修行がそれを可能にするのか。それが体系化されたのは、智顗の摩訶止観(まかしかん)をまたねばならなかった。

 最澄は中国の天台を日本にもたらし、中国にはなかった大乗戒壇(だいじょうかいだん)の建立までして、大乗仏教としての天台宗を完成した。比叡山では如来蔵思想がさらに発展し、「山川草木悉皆成仏」とまでいわれるようになり、天台本学思想が成立する。大乗仏教が日本において行き着くところまでいったとき、道元の疑問が発せられた。

参照・引用
百瀬明治 道元「苦行専心」が道を拓く
 プレジデント社『仏教伝来 [日本篇]』所収