23-01 見仏聞法

23-01 見仏聞法

 

 以前、『般舟三昧経』(はんじゅざんまいきょう)の読み下し文か口語訳を探していると書いた。「見仏聞法」(けんぶつもんぽう)のことを調べたかったからである。「見仏聞法」を読み下しをすれば、「仏にまみえて法を聞く」となる。「見る」(まみえる)というのは出あう事である。「聞く」というのはさまざな疑問の答えを得ることである。

 「見仏聞法」で出会う仏にうち、阿弥陀仏がひときわ重視されるようになる。これがどうやら『般舟三昧経』から始まったようである。そのため、『般舟三昧経』は、浄土教の重要な経典のひとつに掲げられている。また、この『般舟三昧経』に基づいて五世紀初頭に念仏結社『白蓮社』を結成した廬山の慧遠(334~416年)は浄土教の始祖とされている。

 ここで、突然思い出したことがある。聖徳太子に関する伝説である。太子は晩年になって、『三経義疏』の撰述に専念していた。『三経義疏』というのは、『勝鬘経』『維摩経』『法華経』の三つの経典の注釈書の総称である。太子はわからないところが出てくると、夢殿に籠った。禅定に入ると釈迦が現れ、回答を与えたといわれる。当時太子は高句麗からの渡来僧慧慈(えじ)に師事していた。その回答を聞いた慧慈が驚いたという。

 話はここで終わらない。後の時代、親鸞は京都の六角堂に籠る。親鸞はそこで太子の化身である観音菩薩に出会う。今度は太子が現れるのである。親鸞はこのときの夢告でやはり、解を得る。

 夢の中に現れる仏は単なる幻ではないか。現代では、ユング深層心理学を持ち出せば一応の説明は可能であろう。しかし、このような疑問は現代人だけのものではないようだ。慧遠もこの疑問を持っていた。慧遠は鳩摩羅什(くまらじゅう)にこの疑問を投げかけている。鳩摩羅什は、401年に関中に入り、国師として後秦の都長安に迎え入れられている。慧遠と鳩摩羅什とを往復した書簡が集が『大乗大義章』である。『大乗大義章』も入手しがたい本である。