200-23-02 太子と菩薩

 200-23-02 太子と菩薩

『隋書倭国伝』の、 607年の遣隋使についての次の箇所はよく知られている。
 
 その国書にいわく、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云云」と。帝、これを覧て悦ばず、鴻臚卿にいっていわく、「蛮夷の書、無礼なる者あり、復た以て聞するなかれ」と

 しかし、前記の文章の前に次の文章がおかれていることを忘れてはならない。
 
 使者いわく、「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。
 故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」と。

 仏法を学ばせるために「沙門数十人」を送っていたのである。仏教移入のための聖徳太子の並々ならぬ決意が伺われる。

 隋は、589年に成立。後漢時代以後360余年間の魏晋南北時代の分裂時代を経て再び統一された王朝である。仏教は南北朝時代に西域を通じて積極的に中国に移入された。北朝では国家仏教とされ、雲岡や龍門などの石窟を残している。また南朝の文化にも深く入り込んでいた。統一王朝の隋で、仏教は国家仏教的な地位を占めた。智顗によって天台教学という中国仏教の花が開いた。

 ところで、上記の国書では「海西の菩薩天子」という言葉が使われている。隋はこのときすでに、二代目の煬帝(604年即位)の時代になっていた。「海西の菩薩天子」とは煬帝に向けられた言葉である。この言葉の裏には聖徳太子のもうひとつの意図が見られる。このとき、聖徳太子は、海東の「菩薩」天子たらんことを願っていた。

 太子が『三経義疏』で執拗に追求していたテーマが「菩薩」のあり方である。「菩薩」という言葉は、大乗仏教の基本概念のひとつである。太子は「菩薩」をどのように考えていたのか。

 仏教は、紀元前後、西北インドに成立したクシャーン朝の時代に至って大きな変化が起こった。仏像が造られるようになり、大乗仏教という新しい流れが起こった。「菩薩」はこの大乗仏教の基本概念として成立した。「菩薩」の概念には、二つの側面がある。ひとつは、「救済者としての菩薩」である。『観音経』にみる観音菩薩がその例である。もうひとつは「修行者の目標としての菩薩」である。これは『十地経』にでてくる十地の最高の位を目指す菩薩像がその例といえよう。

 太子は、自らは目標型(自力型)を目指しながら、大衆には救済者(他力型)たらんとしたのではないか。親鸞はこの救済者型(他力型)に着眼し、専修念仏の世界を開いた。目標型(自力型)は到達不可能な世界である。そこに太子の悲劇があった。

 大乗仏教の興起のなかで菩薩が登場した。しかし、修行者としての菩薩のあり方は、最後まで示されることはなかった。今日、ガンダーラや西域の遺跡にも菩薩集団の運動や修行の跡と見られるものは残っていない。法顕は三九九年、60歳の頃長安を発ち、インドに向かった。戒律類の不備を嘆いて、インドへの求法の旅に出たのである。このことは大乗仏教の僧の修行方法が明らかでなかったことを示していると考える。

 太子のところには、修行者としての菩薩のあり方が未整理のまま、仏教が持ち込まれたといってよい。聖徳太子はその課題に全身全霊をかけて立ち向かった。ここに見られるのは、日本の仏教受容への積極性である。日本への仏教の伝来は百済からの公伝とその後の日本の積極的な受容によって仏教は日本に定着した。