200-24-03 日本の浄土信仰

24-03 日本の浄土信仰


阿弥陀信仰の伝来

 わが国における阿弥陀信仰は、釈迦信仰や薬師信仰、弥勅信仰、観音信仰などと共に、その歴史は古い。しかも今日にいたるまでひろく、かつ強い命脈を保ってきた。

 『日本書紀』には舒明(じょめい)天皇十一年(六三九)九月に三十年の在唐を果たして帰朝した学問僧恵隠(えおん)のことが記されている。恵隠は、翌十二年五月に『無量寿経』の講説を行い、その後、孝徳天皇の白雉三年(六五二)に宮中において再びその講説を行っている。『日本書紀』のこの記載から『無量寿経』は恵隠によってわが国に将来されたと考えられている。

 『無量寿経』はいわゆる「浄土三部経」のひとつ。「浄土三部経」は無量寿経(大経)、阿弥陀経(小経)、観無量寿経(観経)の三経を「浄土三部経」という。法然が「今はただ是れ弥陀の三部なり。故に浄土三部経と名なづくるなり」と述べたことに由来する。

 しかし、浄土教が日本で広く受容されるには、円仁のもたらした「山の念仏」以降のことである。


■ 聖徳太子阿弥陀信仰

 恵隠の『無量寿経』講説以前に阿弥陀仏に対する知識や信仰の伝来をにおわせるのは聖徳太子の撰述と伝えられる「三経義疏」がある。「三経義疏」は『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』『法華義疏』の総称である。「義疏」は注釈書の意味である。

 『法華義疏』の原本となる『法華経』は当時すでに伝来しており、その「薬王菩薩本事品」には阿弥陀仏に対する経説がある。
 「若如来滅後。後五百歳中。若有女人。聞是経典。如説修行。於此命終。即往安楽世界。
  阿弥陀仏。大菩薩衆。囲繞住処。生蓮華中。宝座之上。」
 (如来の滅後の第五の五百歳に女性がこの教えを聞いて修行すれば、命終の後に安楽世界の阿弥陀如来の極楽世界の蓮華の宝座の上に生まれ変わるであろう。)

 また『維摩経義疏』の「仏国品」には次のような一節がある。
 「無量寿経云。唯除五逆誹誇正法者。但為一念非謂一生終身修行也」
 これは、『無量寿経』の四十八願の第十八願の「唯除五逆誹誇正法」の八字が引用されている。

 すでに推古朝の時代に阿弥陀仏に対する信仰がすでに存在したことも考えられる。だが、阿弥陀信仰に触れる部分は僅かであり太子の信仰というほどの重要性はないのではないか。わが国の阿弥陀信仰流行の発端を恵隠の『無量寿経』講説、舒明天皇十二年(六四〇)以降のことと考えるのが穏当のようである。


■中国の浄土教の概略

 中国では2世紀後半には浄土教関係の経典が漢訳されている。四〇二年には廬山の慧遠(えおん 334~416年)が、『般舟三昧経』にもとづいて阿弥陀仏を念じて三昧を得るための結社をつくった。これはやがて白蓮社と称された。慧遠は浄土宗の祖といわれる。

 やがて浄土三部経を中心として曇鸞(どんらん)(476?~542?年)が『浄土論註』(往生論註)、道綽(どうしゃく)(562~645年)が『安楽集』、善導(613~681年)が『観無量寿経疏』を著し、称名念仏を中心とする浄土教が確立された。

 わが国の天台宗の念仏門に多大の影響を与えたのは白蓮社の念仏の流れを伝えた法照(8世紀)である。848年に帰朝した慈覚大師円仁が、比叡山に四種三昧のひとつとして伝えた常行三昧という念仏法は、この法照流の五会念仏であり、以来「山の念仏」としてひろく天下に流行し、天台浄土教の発展の基礎となった。

【引用・参照文献】
三森正士 「わが国における阿弥陀仏の造像」『日本の美術6』「阿弥陀如来像」 至文堂