800 鎌倉仏教

鎌倉仏教


1.華開く新仏教

 この時代、現在まで続く有力な6宗派の誕生と、それにとどまらず旧仏教の改革者達も改革の枠を超えた新仏教の担い手として多く現れた。日本史上、仏教が最も繁栄した時代の到来であった。

 この時代、どうしてこれほどの人物が傑出し、発展を見せたのか。まず、政治の歴史の流れから見ると、貴族の政権から武士の政権へと移り変わる中世という新しい時代の幕開けであった。それに伴う経済・社会の変化・発展。鎌倉に代表されるような都市が奈良・京都以外にも日本の各地に成立しつつあった。それに伴い、従来は地方の農民がほとんどであった庶民層から、都市で商工に従事して暮らしを立てる都市民が成立してきた。政治・経済・社会の変化・発展とそれに伴う新しい時代の気運。仏教もそれに連動し、触発されて成長していったと考えられる。

 さらに仏教サイドからも理由はあった。平安中期に出た空也源信の動きの延長である。空也は「官僧」の束縛に嫌気が差し、仏教本来の民間布教を行った。時代が進むに連れて「官僧」の世界はますます俗化した。官僧は公務員であるから、公務員の服務規定により個人の救済はできず、国家の仕事・行事に専念せざるを得なかった。公務員であるから、人間関係にも束縛され、出世を目標とする世界であり、本質的に俗世間と変わるところもなくなった。「遁世」とは本来出家を意味したが、この時代になると官僧を辞して「私度僧」になることを「遁世(僧)」というように意味が変わってしまった。鎌倉新仏教の担い手はすべてこの「遁世僧」として、民間布教、すべての人々の救済を目的として活動する者たちであった。

 また、源信末法思想の流行で浄土教を説いたが、その流れから浄土系宗派が生まれた。こちらも同じく庶民を対象とした動きであった。

 こうして鎌倉新仏教は、国家お抱えの仏教から個の人々の救済を目的とする大衆仏教へと移り変わっていった。


2.新仏教の概要

(1) 阿弥陀信仰、他力本願グループ(浄土系)
 末法思想源信浄土教の流れから誕生した「法然の浄土宗」、「親鸞浄土真宗」、「一遍の時宗

(2) 釈迦信仰、菩提心重視グループ
・日本に初めて伝えられた禅宗栄西臨済宗」と「道元曹洞宗
法華経を根本とする「日蓮日蓮宗
・旧仏教側の改革者として「法相宗興福寺)の貞慶」、「華厳宗東大寺)の明恵高弁」、「(新義)律宗叡尊、忍性」など。


3.浄土系新宗派

法然(1133-1212)

 1145年、比叡山入山
 1175年、善導(中国浄土宗)の観無量寿経疏により回心
 1198年、浄土宗を開宗。「選択本願念仏集」は立教開宗の書

 阿弥陀仏のみを信じて「南無阿弥陀仏」と唱えることにより、貴賎上下や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生することができる、と説いた。

親鸞(1173-1262)

 1181年、比叡山で学ぶ
 1201年、法然に弟子入り
 1214年、関東で20年の伝導生活
 1234年、「教行信証」完成

 ※浄土真宗としての教団となったのは、没後。阿弥陀仏の願力によって、信心のみで、いかなる者も救われる、と説いた。戒律は軽視し、妻帯した。

●一遍(1239-1289)

 1267年、諸国遊行開始。特に鎌倉での布教を精力的に行った。阿弥陀仏の絶対性は、「信」すらも不要、念仏のみでよいと主張。すなわち、阿弥陀仏の本願を信じようが信じまいが「南無阿弥陀仏」と唱えるならば極楽往生できる、と説いた。「踊念仏」が有名。


4.禅宗

栄西(1141-1215)

 1155年 比叡山延暦寺で受戒
 1168年 渡唐、南宗禅(臨済宗黄竜派)を学ぶ
 1187~1191年 再び渡唐、南宗禅(臨済宗黄竜派)を学ぶ
 1195年 博多の聖福寺で布教
 1198年 「興禅護国論」を著作
 1202年 建仁寺を開山、幕府から帰依・保護を受ける。

 臨済禅は、看話禅という師弟の問答による修行禅。

道元(1200-1253)

 1213年 比叡山で天台教学を学ぶ
 1218年 建仁寺栄西の門で修行
 1223~1227年 中国渡航曹洞宗を学ぶ
 1227年 建仁寺で布教
 1230年 「正法眼蔵」の著作開始
 1244年 永平寺開山

 曹洞禅は、「只管打坐」による「即身是仏」を説く。


5.日蓮宗

日蓮(1222-1282)

 1239年、比叡山他を14年間遊学
 1253年、日蓮宗開宗。千葉の清澄寺から、後に鎌倉へ出る。
 1260年、「立正安国論」著作
 1274年、甲斐の身延山に隠棲

 釈迦仏に帰依し、「南無妙法蓮華経」を唱えて善行を積むことが救いになる、と説いた。また、個人の救済だけでなく、社会や国家全体の救済を主張したところにも特色がある。現世における仏国土の建設を目指した。
 日蓮の他宗派批判や救国論は過激で、そのため他宗派や幕府の排斥にたびたび会っているが、末法における国家・社会の救済を至上目的として危機感と使命感を持って命懸けで活動したことが推測される。
 このように排斥された一方で、現世重視の思想は、後代まで町人から圧倒的支持を受け、その思想は現代まで反映している。


6.南都仏教の改革

○貞慶(1155-1213)

 ・釈迦信仰
 ・戒律復興運動
 ・法相宗唯識思想を広く展開、「心の浄化」こそが本来の仏教の目的であることを訴え、阿弥陀仏の願力による法然らの念仏浄土仏教を批判

明恵高弁(1173-1232)

 ・釈迦信仰
 ・悲華経の五百願(六波羅蜜など)を重視
 ・女性救済、在家を含む教団を形成
 ・菩提心(悟りを得たいと願う心)が重要であり、菩提心を欠く法然阿弥陀仏信仰念仏仏教を批判
 ・華厳宗の僧侶、密教との融合に腐心

叡尊(1201-1290)

 ・釈迦信仰、戒律護持
 ・菩薩僧(自分の悟りだけでなく、他人も救済しようとする僧)を主張し、興法利生(仏教を興し、衆生を救済する)活動を開始。
 ・「悉有仏性説」
 ・醍醐寺密教を学ぶが、後に「新義律宗」を開く。

○忍性(1217-1303)

 ・叡尊(新義律宗)の弟子となる
 ・葬式、ハンセン病患者の救済、橋梁・港湾工事など様々な社会救済活事業を行う。その他女性救済、尼寺建立


引用・参照
http://homepage3.nifty.com/54321/nihonbukkyoushi.html#kamakura