25-20 阿弥陀仏 メモ

25-20 阿弥陀仏 メモ

2006/3/14(火)


阿弥陀仏の三尊像と独尊像>

 阿弥陀三尊像は観音と勢至菩薩を両脇侍(わきじ、きょうじ)とする阿弥陀仏像をいう。これは無量寿経に説くところで左の蓮座(向かって右)に観世音菩薩、右の蓮座に勢至菩薩、その宝冠の中に観音は化仏(けぶつ)を、勢至は宝瓶(ほうびょう)をつける。持物(じぶつ)については二脇侍とも蓮華をもつものや手印だけのものもあるが、中古以後は観音は両手に蓮台を持ち勢至が合掌している場合が多い(来迎をあらわす)。

 初期(白鳳時代)の像は三尊形式が多く、平安時代に入ってようやく独尊像が生まれてくる。広隆寺講堂の阿弥陀如来坐像などはそのはやい例である。平安後期になると密教の四仏の中から独立した形で定印阿弥陀如来の独尊像の造像が流行する。例えば平等院鳳凰堂の本尊、あるいは法界寺の本尊などが知られている。鎌倉時代になると阿弥陀如来立像が独尊像がすこぶる多く造像される。特に仏師快慶がこれを好んで造っている。もちろん当時の仏教(浄土教徒)の要請に応じての造像であるが、余仏、余菩薩に頼らず、ただ阿弥陀仏一仏に帰依するという当時の信仰がその土台になっている。


阿弥陀如来

 大乗仏教でいう十万世界の一つの西方極楽浄土の教主で『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』などに説かれている。阿弥陀仏にはサンスクリット語アミターバ(無量寿と訳す)とアミターユス(無量光と訳す)の二つの名号がある。この二つの名号には阿弥陀仏の光相があまりに輝かしいために闇がなくなり、つまり時間がなくなって、そのため阿弥陀仏の寿命が極長なのだ、という相関関係があるという。

 阿弥陀如来の前身は法蔵比丘といい、五劫という長い時間をかけて思惟し、四八の請願を達成して成仏した。その請願中の第十八願には「念仏往生」、第十九願には「来迎印接(らいごういんじょう)」が説かれている。つまり、念仏(仏の功徳や姿を想い、「南無阿弥陀仏」の名号を唱える)によって、極楽浄土に往生することができ、また臨終に際して阿弥陀仏が迎えに来る、という阿弥陀仏信仰の中核部分である。


阿弥陀仏の印相(いんぞう)>

 阿弥陀の印相は大別して、次の三つに分けることができる。

1.説法印(転法輪印)
 右手を挙げ左手を垂れた施無畏・与願の印か、右手親指と人差指、左手親指と中指の指頭をつけた形などで表される印相である。
 結跏趺坐して転法輪印を結ぶ阿弥陀像は西方極楽浄土で説法する阿弥陀仏を表したものである。これら説法印は阿弥陀は白鳳・天平時代のものに多い。例えば法隆寺壁画、当麻寺浄土変相、橘夫人念持仏などがある。しかし、広隆寺講堂像、法華寺画像、金戒光明寺禅林寺の山越来迎図など、のちの時代にも見ることができる。

2.定印相(じょういんそう)
 藤原時代から鎌倉時代に作られた像にはこの印相が非常に多い。平安初期に入って来た密教の影響によるもので胎蔵会曼荼羅無量寿仏は通肩にしてこの定印、金剛会曼荼羅阿弥陀仏は偏たん右肩にしてこの定印を結ぶ。 この偏だん右肩・定印の相が平等院鳳凰堂、法界寺、法金剛院など代表的阿弥陀堂の本尊として安置されるものである。鎌倉大仏のみは通肩の定印をなす。

3.来迎相(らいごうそう)
 阿弥陀浄土への来迎引接(らいごういんじょう)の姿をとるもので浄土来迎思想の隆盛にともない鎌倉時代独尊としても多く造られた。


<厭離穢土欣求浄土
 この娑婆世界を穢れた国土としてこれを厭い去り、阿弥陀如来の住む極楽世界を清浄な国土として極楽浄土に生まれることを切望すること。源信の『往生要集』に見られる。


親鸞上人と阿弥陀仏
 絶対他力本願の立場にたつ親鸞上人の出現によって、聖衆来迎の思想は否定され、脇侍すら認めない弥陀一仏の立場から48大願を示す48線の光背の弥陀のみになり終に名号だけが本尊とされるようになる。