200-25-19 阿弥陀仏像の変容

25-19 阿弥陀仏像の変容

2006/3/14(火)


一.我が国における阿弥陀信仰の始まり

 わが国における阿弥陀信仰は、釈迦信仰や薬師信仰、弥勒信仰、観音信仰と共に、その歴史は古く、しかも今日にいたるまでひろく、かつ強い命脈を保ってきた。阿弥陀仏大乗仏教における最も重要な仏の一つである。阿弥陀仏信仰を主題とする経典としては無量寿経観無量寿経阿弥陀経浄土三部経がある。


二.阿弥陀仏像の印相(いんぞう=手の組み方)と像容の変化

 阿弥陀仏像は時代とともに大きく変容する。仏像の歴史は飛鳥時代に始まって鎌倉時代にほぼ終わる。如来像の中で阿弥陀如来像ほど多くの印相をもつ像はほかにない。 阿弥陀如来像にみられる印相は、現在残されている仏像を見ると、施無畏与願印、説法印、定印、来迎印の順に、変化してきたのがわかる。


三.飛鳥時代

 仏教が公伝された、欽明天皇13年(538)から、大化の改新が行われた、孝徳朝の大化元年(645)までの時代をいう。日本の仏教文化が最初に花を開いた時代である。

 わが国の阿弥陀信仰の発端は、飛鳥時代の末期で、唐から帰朝した学問僧、恵恩が『無量寿経』を講義をした欽明天皇の12年(640)に求めらる。しかし、阿弥陀仏像が造られるのは、白鳳時代に入ってからである。


四.白鳳時代

A.時代と阿弥陀仏の特徴
 大化の改新が行われた、孝徳朝の大化元年(645)から平城京への遷都があった元明天皇和銅3年(710)までの時代をいう。阿弥陀信仰は、白鳳時代から流行しはじめたと考えられ、この時代の阿弥陀仏像作例は多くはない。
 この時期の阿弥陀仏像の特色は次のとおりである。
1)三尊形式が多い。
2)印相は通仏の印である施無畏与願印と説法印(転法輪印)をとり、他の印相は認められない。
3)姿勢は倚坐と結跏趺坐があるが結跏趺坐の場合は左脚を上にするものが多い。
4)材質的には金銅仏が主体で、ほかにせん仏や押出仏もある。

B.現存遺品一覧
 ○東京・銅造阿弥陀如来三尊像(東京国立博物館
 ○奈良・法隆寺阿弥陀三尊像(伝橘夫人念持仏)
 ○奈良・法隆寺厨子入押出阿弥陀五尊像
 ○奈良・せん製阿弥陀五尊像
 ○奈良・法隆寺金堂壁画6号壁


五.天平時代

A.時代と阿弥陀仏の特徴
 元明天皇和銅3年(710)の平城京への遷都から、延暦13年(794)の平安遷都までの都が奈良にあった70数年間をいう。
 いずれも、説法印を結んだ阿弥陀如来坐像を中尊としており、像容も等身以上の大きさで、脱乾漆造の多いことなどが特色として挙げられる。

B.現存遺品一覧
 ○法隆寺東院伝法堂の阿弥陀三尊像
 ○奈良・興福院の阿弥陀三尊像
 ○奈良・当麻寺当麻曼荼羅


六.平安初期

A.時代と阿弥陀仏の特徴
 延暦13年(794)の平安京への遷都から、寛平6年(894)の遣唐使廃止までの約1世紀の間をいう。
 平安時代初期の仏像は、古典的な調和の美を重んじた天平の仏像を否定し、異質な強さをもつ仏像を生み出した。あえて均衡を破り、身体の一部を強調するなど、内部から湧き出る宗教的な力を表わそうとしたのである。
 平安初期に初めて空海によって密教が正式にもたらされた。密教の仏像は、超越的・宗教的な力を象徴的な形と彩色によって、神秘的な雰囲気に作り出している。この新しい密教阿弥陀信仰にも変化がもたらした。それは密教に、金剛界胎蔵界という二つの曼荼羅があり、十方の諸仏はすべて法界の当体である大日如来の統合のもとにあることが表現されている。
 ここにおいて、阿弥陀如来は極楽浄土の仏ではなく、大日如来の五智のうち妙観察智をあらわす仏として表現された。その像容は、禅定印を結んで結跏趺坐する姿にあらわされます。
 しかし密教の五仏のひとつに編入された阿弥陀如来でも、白鳳時代奈良時代以来連綿と続いた阿弥陀信仰の伝統を承けて、像容は曼荼羅にみられる姿を示しながら、五仏より独立単独に信仰されることが行われました。

B.現存遺品一覧
 ○京都・広隆寺阿弥陀如来坐像
 ○京都・清涼寺の阿弥陀三尊像
 ○京都・仁和寺阿弥陀三尊像
 ○京都・東寺の金・胎両曼荼羅


七.藤原時代

A.時代と阿弥陀仏の特徴
 遣唐使が廃止された寛平6年(894)から平家が滅亡した寿永4年(1185)までの間をいう。
 始めの十世紀は、遣唐使の廃止によってしだいに和洋化=日本化が進んだ時期で、次の十一世紀は、定朝という大仏師によって和洋化が完成した時期である。最後の十二世紀は、この和洋化を踏襲する時代。

B.現存遺品のリスト
1.和洋化の模索
 ○京都・岩船寺(いわふねでら)の阿弥陀如来
2.和様の完成
 ○宇治平等院鳳凰堂阿弥陀如来
3.定朝様の踏襲
 ○法界寺阿弥陀如来
 ○京都・浄瑠璃寺の九体の阿弥陀仏
 ○京都・三千院阿弥陀如来及び両脇侍像


八.鎌倉時代

A.時代と阿弥陀仏の特徴
 平家が壇の浦で滅亡した寿永4年(1185)から、南北朝が合一した明徳3年(1392)までの間をさす。
 平安時代以降の浄土経の主導的な地位にあったのは、叡山の天台浄土経である。叡山でも横川がその念仏門の中心地であった。良源(913-986)、源信(942-1017)のあとを受けてこの時代に現れた法然は、それまで「山の念仏」といって貴族の間でのみ流行していた念仏を、地上の武士階級や一般民衆のものとし、弥陀の本願、他力易業の念仏を鼓吹した。
 その弟子の親鸞により阿弥陀の慈悲が一層強調され、田夫野人に念仏の奥義を説いた。彼らは像寺造塔、造像功徳などという作善を否定する立場をとり、ひたすら名号を本尊とした。

B.現存遺品
<慶派の遺品>
 運慶作
 ○神奈川県横須賀市・浄楽寺阿弥陀如来
 ○静岡県伊豆韮山・願成就院阿弥陀如来
 快慶作
 ○東大寺俊乗(しゅんじょう)堂阿弥陀如来
 ○兵庫浄土寺阿弥陀堂阿弥陀三尊像
<古典復興と宋風彫刻>
 鎌倉時代の彫刻を慶派だけで考えるのは難しく、この時代には非常に変化に富んだ仏像が多く造られている。
 復古的作風
 ○高徳院阿弥陀如来坐像
 ○善光寺阿弥陀三尊像の流行