中国仏教2

00-03 中国仏教 2

2006/6/25(日)


■ はじめに

 中国への仏教の伝来にあたっては、紀元二世紀以降、一挙に伝来することになった。インドでの仏教の展開の事情は伝わらず、大乗・小乗の仏典が同時に伝わり、そのため、中国では仏教を受容する上でいくつかの困難な問題にぶつかることのなった。それは次の三点である。

 (1)仏像の問題
 (2)戒律の問題
 (3)禅観法の問題


■ 仏像の問題
 
 仏像は一世紀にクシャン朝のもとにあったガンダーラとマトゥーラで制作され始めた。仏像の制作は小乗仏教の発展の中で始まったものであり、大乗仏教とは無関係であったと考えられる。ところが中国へは仏教の経典や教理よりも先に仏像が入ってきてしまった。中国においては、仏像抜きの仏教は考えられないという環境が先にできてしまった。

 大乗仏教の経典を最初に漢訳したのは、二世紀の後漢の時代に西域から渡来した支婁迦讖(しるかせん)である。支婁迦讖は漢訳にあたって仏像との整合性を図ったようにと思われるところがある。梶山雄一氏が『般舟三昧経』(はんじゅざんまいきょう)についてその「誤訳」を指摘しておられる。しかし、それは誤訳ではなく、仏像の存在にあわせるための意図的な改訳、あるいは創作ではなかったのか。
 支婁迦讖の漢訳によって、『般舟三昧経』の「般舟三昧」は禅観法として受容され、後の五世紀の初頭に廬山の慧遠によって念仏結社「白蓮社」が結成される。この動きが、中国の浄土教の源になる。さらには、天台智顗によって摩訶止観に取り入れられた。


■ 戒律の問題

 『般若経』や『法華経』などの大乗経典はインドで編纂された。インドでこれらの経典が発見されることは少ないが、論師の龍樹や世親の論書に引用されていることから編纂はインドでなされたことがわかる。しかしインドでは大乗仏教の運動が盛り上がることはなく、大乗の教団というものも存在しなかった。

 教団のないところに戒律もない。中国においては仏図澄(ぶっとちょう)以後教団が公認されるにいたった。ところが、模範にすべき教団も戒律もインドにはなく、当然のこと、中国にも伝わっていない。中国においてはこの事情は解っていない。大乗の戒律は無いのではなく伝えられていない、と思うものもいた。

 釈道安(しゃくどうあん)はすでに漢訳された経典の整理をするとともに、戒律に関する経典の漢訳もすすめた。しかし、それでも不十分であった。法顕はその状況を嘆き、インドへの求法の旅を決意した。仏典の中でも戒律は文字化され書写されることは少なく、口伝によって伝えられることが多かった。それゆえ、法顕はインドへ着いた後も、戒律の入手には苦労をしている。

 法顕はそれでもいくつかの戒律は入手したのだが、すべて小乗部派のものであった。前述したように、五世紀初めのインドにもまだ大乗の教団というものはなく、大乗の僧も小乗と同じ戒律にしたがっていた。ようやくその事情がわかってきたのか、中国ではその後「大乗の戒律」の編纂が試みられることになる。


■ 禅観法の問題

 禅観法についても、戒律と同様の問題があった。大乗独自の禅観法というものがインドに成立していなかった。禅観に関する経典の多くは「観」という文字が頭に付されている。『観無量寿経』はその代表的なものの一つである。この経典についてはサンスクリット語の原典がなく、西域あるいは中国で編纂されたものではないかといわれている。編纂の地の不思議さは、『観無量寿経』にとどまらない。

 鳩摩羅什もいくつかの大乗の「禅観法に関する経典」を訳している。しかし、それらの大乗の禅観法については原典は明らかでない場合がある。支婁迦讖が仏像の存在を前提として、「般舟三昧」という禅観法を創出した。その後の中国仏教はどいうやら、その影響を免れることはできなかったようである。鳩摩羅什も支婁迦讖の敷いたレールの上を走ることにしたようである。


■ 最後に

 こうして、インドにはない、大乗の教団が中国に成立することになった。仏像の存在と結びつき、インドにはなかった戒律と禅観法をもつ中国の大乗教団が成立することになった。唐の時代の末期から宋の時代にかけて中国には禅宗が登場する。この禅宗の登場の意味は大きい。禅宗は初めて上記の呪縛から免れることができた中国的な仏教ではないのか。

 また、日本への伝来においてもこの問題は尾を引いた。最澄大乗仏教を更に純化しようとした。例えば、中国においては、小乗の戒律の上に大乗の戒律をいわば接木的に乗っけたものを戒律としていたが、最澄は小乗の戒律を否定してしまった。