中国仏教1

00-02 中国仏教 1

2006/5/21(日)


◆はじめに

 中国における仏教の歴史は大乗仏教が定着・成立する歴史でもあった。中国においては、大乗の仏教も小乗の仏教もいずれも釈迦が説いたものとされ、大乗に対する偏見・差別がなかった。また、大乗の「空」が老荘の「無」を通して理解されるなど大乗を受容する文化があった。

 中国において大乗仏教が定着したのは、鳩摩羅什の翻訳活動による。鳩摩羅什が大量の大乗経典に加えて、論師龍樹の『中論』や『大智度論』などの論書も漢訳した。鳩摩羅什自らが大乗仏教に傾倒していたこともあって、ここに大乗の優位が確立した。その後、経典を釈迦の一生に合わせて整理しようとする「教相判釈」が試みられるが、いずれも大乗優位の観点が取られている。

 ところが、中国仏教は思わぬ難問に遭遇する。中国仏教はこれらの難問を見事に切り抜け、中国仏教を確立する。


◆出家教団の戒律・禅観法

 インドにおいては、『般若経』や『法華経』など大乗の経典は成立したが、大乗の出家教団は成立しなかった。法顕や玄奘旅行記の記述や発掘の結果を見る限り、インドにおいては大乗が主流になることはなかった。「大乗の出家教団」という考え方もなく、僧院の中の戒律は小乗の教団の戒律を踏襲していたにすぎない。禅観の修行方法においても、独自に確立したものを有していなかったようである。大乗の禅観経典というものもなかったのではないか。

 したがって、中国でその穴埋めをする必要に迫られた。インドからもたらされるのは、小乗の律蔵のみである。『十誦律』『四分律』などの律部経典がそれである。そこで、中国での律蔵の撰述が行われる。『摩訶僧祇律(まかそうぎりつ)』である。この律蔵を契機として、大乗の戒律が整備される。

 また、禅観経典についても穴埋めが行われる。『観無量寿経』のサンスクリット原本はなく、西域(東トルキスタン)かあるいは中国において編纂されたものではないかとされている。頭に「観」とつく大乗系の経典については編纂された地域を見直してみる必要がある。


◆仏像の位置づけ

 仏像は小乗仏教の発展のなかで発生したものである。ところが、中国においては仏像の移入が仏教の移入に先行している。大乗仏教の「空」と仏像の存在はむしろ矛盾するものである。しかし、この調整はかなり早い時期になされた。支婁迦讖は『般舟三昧経』の漢訳にあたり、見事その矛盾を解決した。その結果、仏像を前にした禅観という方法が生み出された。「般舟三昧」それである。


◆中国仏教の確立

 インドにおいては一世紀の頃大乗仏教が興起し、やがて小乗仏教に取って代わるほどの勢力なった。中国ではそのように理解されていた。その結果、中国ではさまざまな困難に遭遇しながらも大乗仏教を確立した。その精華が天台教学である。しかし、本当の意味での中国仏教の確立は、浄土と禅ではないか。仏教が中国固有の文化である、儒教道教と相互に影響を与えながら、成立したのが浄土と禅であると言えるのではないか。


◆仏教の普遍性と土着の神

 仏教はその発生において、土着性を一切持たなかった。釈迦がさとった真理は古来からあるものとされた。それゆえ、仏教は普遍性があり、新興の王族や商人の支持を受け、民族や地域を超えて普及した。しかし、仏教は広がってゆく過程でその土地の「神」と衝突する。しかし仏教のもつ寛容性はここで土地の神と融和する。相互に影響を与えながら、定着する。この定着したものが仏教である、という観点が必要のように思われる。