11-01 『般舟三昧経』と慧遠

 鳩摩羅什(344~413年)の到来を待っていた僧は他にもいた。慧遠(えおん 334~416年)である。慧遠は道安の弟子であった。慧遠は五胡十六国時代の混乱の時代、21歳で道安のもとで出家した。道安に随って各地を転々としたが、東晋(317~420年)の襄陽(じょうよう)にいたときに、前秦の苻堅(ふけん)が侵攻し、道安を長安に連れ去った。このとき、慧遠は師と別れて南下し、江西省の潯陽に至り、そこで廬山に入った。

 402年、慧遠は同志123名とともに、廬山山中の阿弥陀仏像の前で、念仏実践の誓願を立てる。このとき造られた結社は後に白蓮社といわれた。慧遠の念仏行は、後世の浄土三部経に基づく専修念仏とは異なり、『般舟三昧経』に基づいた禅観の修法であった。

『般舟三昧経』に次のような文章がある。

 仏告ぐ、一行法あり。・・・第一行法とは「現在仏悉在前立三昧」(般舟三昧)である。(聞事品)
 ・・・・・
 何によって「現在諸仏悉在前立三昧」を致すや。何人でも仏を求めるものは、よく戒律を守って一処に止どまり、心に西方阿弥陀仏が今現存したもうのを念ぜよ。(行品)

 しかし、般舟三昧による見仏聞法の経の説については、慧遠は疑問をいだいていた。この専念している座を離れずに、夢の中で遠い西方浄土阿弥陀仏に会うというが、その夢の中の阿弥陀仏とはいかなる仏身なのか。

 401年に、鳩摩羅什が関中に入り、国師として後秦の都長安に迎え入れられると、慧遠は鳩摩羅什と往復書簡を交わし、疑問点等をただした。その書簡集が『大乗大義章』である。しかし、その内容を知る手立てがない。

参照・引用文献
・塚本善隆 「浄土教の誕生と大成」 『仏教の思想8』 不安と欣求<中国浄土> 角川書店