12-10:清規と葬礼儀式

 八世紀末の禅僧、百丈懐海(ひゃくじょうえかい)は「百丈清規(しんぎ)」という僧院の制度を定め、率先して労働に励んだ。『祖堂集』「百丈懐海章」によれば、百丈が毎日ほかの僧に率先して働くので、農作業の責任者が見るに忍びず、農具を隠して休ませようとした。百丈は農具を探し回り、見つからないので食事もとらなかった。

 そこで「一日不作、一日不食(一日作さざれば一日食らわず)」という言い方が世に広まったという。これは『史記』「趙世家(せいか)」に趙の粛公が大陵所に遊び、門を出ようとしたとき、家臣が、いまは農繁期ゆえ「一日不作、百日不食」と諌めたという故事を踏まえた表現である。君主が城から外に出れば、人民(農民)も動員され、一日農作業ができなければ、後々百日間の食料に影響するという意味である。粛公はすぐに思いとどまったが、農作業と統治とを関連させた広い観点からの話である。百丈の方は労働と食事とを自己一身に集中させた話であり、平易な話の中に自然のはたらきと自己のはたらきとの深い関連を示している。

 こうした思想の淵源を辿ると、天地の自然と一体になる生き方を示した荘子に行き着くが、その生き方は東晋南朝の貴族による道家思想の受容を通して中国知識人の生き方の一つの典型になり、仏教にも影響を与え、インド仏教とは違った中国仏教を生み出したのである。

 一方、民間では因果の思想は地獄の思想と融合して発展した。元来、中国には死者の世界として冥界(めいかい)の思想があったが、仏教がそこに八大地獄などの考え方を導入し、人はその死後、冥界の役所に行き、そこで閻魔大王(閻羅王)によって裁かれ、天から地獄までの六道(りくどう)を輪廻(りんね)するのだと説いたのである。これは民衆宗教であり、唐代には確立していたと思われるが、輪廻の思想はまた道教にも影響を与えた。地獄と輪廻の思想は民衆の間に広く、深く浸透したのである。

 地獄の思想が広まると、身内に死者が出た場合、遺族が仏教や道教の寺(仏寺・道観)で死者を送るための儀式をするようになった。そのような儀式を超度(ちょうど)と言い、そのときには冥界用の紙のお金(紙銭)を燃やして亡者に届ける。燃やさないと冥界に届かないのである。亡者はそのお金を冥界の役人に差し出し、地獄に落とさないようにしてもらうのであり、文字通り「地獄の沙汰も金次第」である。なかでも「孝の思想」と結びついて、親の超度は最高の孝行となった。民衆レベルでは儒教と仏教と道教が渾然と融合したわけであり、人々は現在でも仏寺と道観の区別なく同じ気持ちで超度の儀式をしてもらっているのである。

参照・引用
・蜂屋邦夫 「仏教と道教儒教の対立-変容していった中国仏教」
 NHKスペシャルブッダ 大いなる旅路3 救いの思想大乗仏教NHKブッダ」プロジェクト NHK出版