12-09:戒律から「清規」へ

 出家して比丘になることは具足戒を受けることに他ならない。その証明が中国にあっては度蝶(どちょう)と呼ばれる免許状で、許可なく出家した私度僧(しどそう)と区別するために絶えず携行することを義務づけられていたが、もともと守ることがほとんど不可能な戒条である以上、その受戒は形式的なものにならざるをえない。

 かくして、小乗戒の受持は形式的、儀礼的なものとなったが、だからといって破壊無惨の僧侶が頻出したというわけではない。肉食の徹底的な禁止など、時には小乗戒以上に厳しい規定にむしろ自発的に従っていたのである。そして、それを支える上で大きな役割を果たしたのが僧制であった。

 僧制の始まりは、道安のいわゆる『僧尼規範』であるとされる。『梁高僧伝』によれば、
 制する所の僧尼規範は仏法の憲章なり。条して三例となす。
 一に曰く、行香定坐上講経上講之法。
 二に曰く、常日六時行道飲食唱時法。
 三に曰く、布薩差使戒過等法。
 天下の寺舎は則を遂いて之れに従う。

と言われ、詳しい説明は見られず、また余りにも簡略ではあるが、律の条文が禁止項目の羅列であるのに対して、肯定文で語られた実践徳目であり行為規範である点に大きな特徴があると言えよう。

 そして、これらを先駆として、やがて中国仏教独自の清規の形成につながっていくのである。ここに清規とは清衆の規範という意味で、この名称自体に自発的意思を見出すことができるのである。以下に清規の代表的事例である禅宗清規についてその概要を見てみたい。

 禅宗は菩提達摩を鼻祖とするが、これはもとより伝承にすぎず、一派としての態様を整えるのは馬祖(709~788年)の時代であった。そして、その端緒となったのが武則天の信を得た神秀(606?~706年)であり、その弟子で、やがてその膝元を離れて新時代の旗手となった神会(じんね 670~762年)であった。

 まず、神秀は戒学や各種の教学に長けた一代の学匠であったが、その『観心論』(『破相論』)に、

 「質問、菩薩摩訶薩は三衆淨戒を持し、六波等蜜を行じることによってはじめて仏道を完成することができますのに、今、我々修行者には唯だ観心のみをさせて戒行の修行をさせられません。どうして仏となることができましょうか。」

という如く、すべてを観心に集約する斬新な立場に立っていた。こうした理念的な戒観は勿論『梵網経』によって導き出されたものであるが、もはや具体的な戒としての機能は備えていない。 

 これを受けて神会は無念、すなわち観察すべき心さえもないという立場を明らかにし、そこから修行否定論を打ち出すにいたる。これは神秀の批判的継承という意味をもつが、この神会の主張は盛都に居した無相(684~762)、無住(714~774)に受け継がれ、特に無住は持戒そのものも妄想によるものであり、もはや守るべき戒も有り得ないという極論に陥ってゆくことになる。

 もともと持戒否定論は理念的立場に立つ菩薩戒思想そのものが成立当初より内包する矛盾の一つの帰結であったが、仏教徒としての自覚や儀規の放棄にまでいたるものではなかったのである。それが安史の乱(755~763)による教学仏教の崩壊や社会の変動を背景に、従来の教理体系のみならず、あらゆる実践手段に対する反定立が無住によって提起されたのである。

 そして、それを止揚する思想的意義を担って馬祖に始まる禅宗が興隆するのである。即ち、この最も中国的な特徴を持つ土着仏教は、仏教の構成要素である仏・法・僧の三宝に関しては、祖師・仏心の直接の伝授・論という新しい三宝を打ち立て、インド伝来の経・律・論の三蔵を軽視もしくは放棄し、代わって語録・清規・論という独自の三蔵を成立させたのである。

 勿論彼らも出家するにあたっては先に見た如く、受戒受具して度蝶を手に入れているが、それは形式的なものにすぎず、戒律にかわって清規をその生活規範としたのである。

 その清規のもっとも古いものは『景徳伝灯録』百丈章に付せられた『禅門規式』である。それに依れば、馬祖によって禅宗が教団として確立するまでは、多く律院に住していたが、さまざまな規矩の面で一致せぬところが多く、独立して独自の規範の下に修行生活を送る必要に迫られた歴史経過を述べた後、

 「私が宗とするところは、大小乗のいずれかに偏るものではなく、大小乗に異なるものでもない。それらを取捨選択して制範を設けたのである。宜しく努めるように。」

 とあるように、大小乗戒に基盤を置きながら禅門にふさわしい規範を制したのである。
 これによって禅宗の教団的独立も確かなものになったのであるから、その功は百丈に帰せられるべきであるかも知れず、『宋高僧伝』にも、

 「天下の禅宗は、風が雲をなびかせるように、禅門の独立独行は百丈が始めたのである。」

と言われ、確かに成文化は百丈によると思われるが、それは馬祖一門の規矩を反映したものであると考えられる。そしてその条文は先にも述べた如く禁止項目ではなく、実践徳目からなっており、初期には極めて簡単なものであった。即ち、禅宗の特異性の表明に焦点が絞られているので、それによって我々は初期の禅宗の特徴を知ることができる。しかし、時代と共に増広されていくのは律蔵の場合と同じである。

参照・引用
沖本克己 「戒律と清規」 岩波講座 東洋思想 第十二巻 『東アジアの仏教』所収