12-08 律典の伝来と梵網菩薩戒

 中国への律典の伝来と受容の経緯はほぼ以下の引用の通りである。しかし、律典の伝来が五世紀初めに集中しているのは偶然ではない。多くの禅観経典もまたこの時期に集中して伝来している。

 五世紀初頭に、鳩摩羅什が一大漢訳事業により「中観仏教」を中国にもたらし、中国仏教を大乗仏教一色にした。しかし、何度も繰り返すが、インドでは「大乗仏教の教団」は存在せず、大乗仏教にふさわしい戒律も禅観法も存在しなかった。したがって、中観仏教の急速な普及の影で、戒律と禅観法の空白が自覚されたのだろう。この空白を埋めるようにして丁度この時期、多数の戒律と禅観法に関する経典がもたらされたと考えるべきである。

 この事情は、その後の受容にあたっても複雑な問題を提供した。中国仏教は、大乗仏教に合った戒律、大乗仏教に合った禅観法を創出する課題を担わされたのである。文化・伝統、気候風土の違いを克服する以上にそれは困難な課題であったはずである。

 以下は引用である。

  
 五世紀に入ると、待望久しかった律典が次々ともたらされた。その状況を以下に概観しておこう。

(一)『十誦律(じゅうじゅりつ)』六十一巻
 カシミールの弗若多羅(ふっにゃたら)が説一切有部の持した『十誦律』を暗誦して渡来し、鳩摩羅什および数百人の義学僧が翻訳したが、弗若多羅の死亡で中断した。その後、曇摩琉支(どんまるし)がもたらした梵本を元に訳業を完成し、羅什の没後、受戒の師である卑摩羅叉(ひまらしゃ)が校訂を加えたという。翻訳時期は、404~409年にかけてである。

(二)『四分律』六十巻
 カシミール仏陀耶舎(ぶっだやしゃ)が、曇無徳律(法蔵部の持した律)を暗誦して渡来し、竺仏念とともに翻訳した。翻訳時期は410~412年である。

(三)『摩訶僧祇律』四十巻
 大衆部(だいしゅぶ)に伝持された律。渡印した中国僧法顕が、パータリプトラのアショーカ王南天王子で発見し、他の経とともに書写して帰国し、仏駄跋陀羅(ぶっだばだら)とともに訳出したもの。翻訳時期は、416年~418年の間。

(四)『五分律』三十巻
 法顕はまたセイロンに赴き、化地部の律を得たが、翻訳せぬままに没した。それを仏駄什が訳出した。翻訳には、智勝、道生、慧厳が参画している。翻訳時期は、422~423年である。

(五)『根本有部律』百九十九巻
 義浄は671年から25年間渡印して、主としてナーランダ寺院で学び、根本有部律を将来した。他に比して量が増加しており、その成立も新しい。翻訳時期は695~713の間である。

 以上が五大広律伝来の概況である。

 中国では『十誦律』が重んじられたが、やがて内容の整った『四分律』がこれに代わり、道宣(596~667)に至って四分律宗南山律宗)が成立した。これは大乗の立場から『四分律』を解釈したもので、以後、中国では律典といえば『四分律』を指し、その基本的立場は道宣が、「律儀の一戒は声聞にほ異ならず」と称したごとく、中国にあっても小乗戒を持することがその基本とされた。しかし、これらの受持も早い時期に形式化し、もっぱら、研究や講義に用いられるだけであった。文化や伝統や民族性の違い、また、気候風土の違いは戒律の規定をそのまま守ることを不可能にするからである。

 次に中国の戒律思想の展開にとっては、大乗菩薩戒が重要な位置を占める。その理念や具体的戒条はさまざまな経典にそれぞれ別々に説かれていることから、大乗仏教は当初は別々に興起したことが知られるのだが、それを発達した大乗仏教の立場からまとめたのが、いわゆる『瑜伽論(ゆがろん)』に説かれる三聚浄戒思想であった。

 これは律儀戒、摂善(しょうぜん)法界、饒益有情戒(にょうやくうじょうかい)よりなり、広律に説かれる小乗戒は律儀戒にあてはめられている。いわば大乗の菩薩が小乗の律を持することの理論的根拠を明らかにし、その上で大乗仏教の特質を発揮することを目的としたもので、その通仏教的は道宣の立場とも一致するものである。

 これに対して中国で撰述されたいわゆる偽経の大乗戒経を代表するものに『梵網経』『瓔珞経(ようらくきょう)』がある。これらは『華厳経』の系譜に属し、純大乗的立場で十重四十八軽(きょう)といわれる新たな戒律の思想と実践の体系を提唱し、中国菩薩戒思想を代表するものとなったのである。

 そして、こうした動きが、250戒といわれる具足戒の受持の形骸化を促進したのである。あるいは逆に、歴史と風土の異なる場所で、額面通り厳密に保つ事のできない規則となったインド伝来の戒律を補う目的で、こうした経典が作成されたと捉える方が正確なのかも知れない。

引用・参照
沖本克己 「東アジアの教団」 シリーズ・『東アジア仏教』第1巻所収