14-01 中国禅宗の画期性

14-01 中国禅宗の画期性

2006/9/26(火)


 中国仏教の歴史をみるとき、いくつかの留意すべき点がある。中国の仏教がインドの仏教を追いかけ、一定のタイムラグをもってインドの仏教の流れに追随してきたのではない、ことはすでに何度も述べた。インドにおける大乗仏教の興起、中観、唯識、禅、密教などの新しい動きは、その都度中国の仏教の展開に大きなインパクトを及ぼしてきた。

 インドにおいてはこうした動きは大きな節目をつくることなく仏教の流れに新たな流れを加えるようななだらかな変化をしていた。しかし、新しい流れが渡来僧によっていったん中国に持ち込まれると、中国仏教はそのたびに大きな節目を造った。

 大乗仏教の興起は第一の仏教改革であった。それは、繁栄を誇るクシャン朝の時代、一世紀初頭のことであった。仏教の歴史を見ていると、もうひとつの大きな改革の流れがあった、ということができるのではないか。禅宗は、唐の最盛期の時代に生まれた。

『東アジアの仏教』第12巻 岩波講座 東洋思想 p22

 禅宗は教外別伝と称して経典の背後にある仏心の伝授をもって任とし、坐禅の修習を通じて、自己の本性を開顕し(見性)、直ちに如来地に入ること(頓悟)を主張する。経に変えて、修行者の体験記録や問答が語録として重んぜられ、後には公安と呼ばれて工夫の手段とされたが、その表現は中国社会の日常生活を反映し、あるいは老荘思想も借用して自由自在であって、その点で、最も非インド的な仏教、中国独自特仏教をつくり上げた。

 さらに仏教の非インド化ということで突起すべきことは、馬祖の弟子百丈懐海(720~814年)によって禅院の規則としての清規(しんぎ)が定められたことで、その基本に自給自足の生活の尊重があることである。インドの戒律は一切の生産活動を認めていない。

 「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」の四句は、禅の定義をあらわす代表的な言葉で、教説の外に、体験によって別に伝えるものこそ禅の真髄であり、経論の文字をはなれて、ひたすら坐禅によって釈尊の悟りに直入するという意味である。達磨より下って六祖慧能(えのう)から盛んになった南宗禅で、特に強調された。

 大乗仏教の運動は経典の作出から始まった。当時は、部派仏教の経典もまだ未整理の状態で、新たに作出した経典を釈迦が説いたものとして紛れ込ませることが可能な時代であったのだろう。そして、膨大な大乗経典が作られ、論書も作られた。浄土教の始祖たちの論書は、これらの経論にその正しさを求め、牽強付会とも思える、引用をしている。

 禅宗が出た唐の時代には、もはや新しい経典を作る余地はない。それが教外別伝という考え方を生み出した。「無」を通して「空」を捕らえなおそうとした禅宗にもっとも適切な方法であったのだろう。