31-25 「伝説」のもつ意味

31-25 「伝説」のもつ意味

2006/10/1(日)


 大乗仏教興起の謎をめぐって、グレゴリー・ショペンの説を紹介した。ショペンは、「碑文」という日常生活を生で伝える資料を用いて、運動としての大乗を再現しようとした。ショペンの説は平川彰の大乗仏教の「仏塔起源論」の批判として出てきた。平川彰の研究は、「律」という文献を用いることによって、古代仏教僧団の生活状況を明らかにしようとした。

 平川彰の説もグレゴリー・ショペンの説も、それまでの、経典を中心とした研究に対する批判として出てきたものである。経典に変えて、平川彰は「律」を、グレゴリー・ショペンは「碑文」を研究資料とした。グレゴリー・ショペンの「碑文」を資料とする研究方法は、より実証的な方法である。そこで明らかになったことは、これまでのインド仏教の歴史に抱いてきたイメージと大きく異なるものであった。

 初期大乗経典が一世紀に作成されたことは中国での漢訳の歴史から明らかである。しかし、大乗仏教が興隆してそれまでの小乗仏教(部派仏教)に取って代わるほどの勢力になったかについては納得のいかないものを感じていた。仏教散策のなかで、感じたところを並べてみよう。

1)西域とインドには阿弥陀仏像がない
2)西域では、小乗仏教(部派仏教)が優勢
 西域北道は、小乗仏教(部派仏教)の地域
 西域南道も、ホータンが唯一の大乗仏教
3)法顕の『仏国記』、玄奘の『大唐西域記
 西域は勿論、インドでもなお小乗仏教(部派仏教)が盛ん
4)人物伝
 ・『龍樹菩薩伝』
 出家の場所、小乗仏教の寺院 <-大乗の僧院・教団がなかった
 大乗経典の入手 ヒマラヤ さらには 竜宮 <-大乗経典の出自の正当性を竜宮伝説に求めた
 ・無着の伝説 
 出家場所
 弥勒菩薩の応援
5)大乗経典の出自
 ・『華厳経』のホータン編纂、竜宮伝説
 ・『観無量寿経』の西域編纂説
6)中国での経典の漢訳の歴史
 ・大乗の戒律
 ・禅観経典
 いずれも入手に苦労している。大乗の戒律というのはインドには無かった。
 大乗の禅観経典については、西域で編纂されたものが多い。

 インドには大乗仏教の教団は成立していなかった、インドには大乗仏教は少数派のもであった。ということは、鳩摩羅什は知っていたに違いない。鳩摩羅什長安に迎え入れられたとき(401年)、中国の仏教において小乗仏教はかなり盛んであった。鳩摩羅什が華中に来るのを誰よりも待っていたのが、中国人の僧、釈道安であった。釈道安はそれまでに漢訳された仏典の整理をしながら、数多くの小乗仏教の経典も漢訳していた。

 そこにきた鳩摩羅什は、経典ばかりでなく、中論などの論書も漢訳し、中国の仏教を、大乗の「空」一色にした。律や禅観に関する仏典も訳し、中国仏教の基礎をつくった。鳩摩羅什は、インドにはない大乗仏教の教団を中国に作り上げた。

 そんなことがどうして可能だったのか。西域やインドの情報が乏しかったこと、羅什などの西域からの渡来僧に対する信頼の厚さ、羅什のずば抜けた才能などがそれを可能にした。だが、もっとも大事なのは、大乗仏教の普及への情熱と志であった。それは、羅什一人のものではなく、支婁迦讖、仏図澄など渡来僧のいずれもがもっていたものであるし、また、後の時代の渡来僧も持っていたものである。

 しかし、鳩摩羅什が死を迎えて残した言葉は羅什の天才をもってしてもなお、不安を残したのであろう。訳出したものが真実ならば、私の舌が焼け残るといって死んでいったという。果たして舌は焼け残ったというのである。この伝承は、羅什の不安を伝えている。
 
 伝承は事実を伝えてはいない。しかし、伝承は何かを伝えている。上記の多くの疑問は、伝説や伝承に深い意味を認めるから、というのが多い。碑文に加えて、伝説の意味も考えてみることが必要である。

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