300- 32-17 法顕と西域

2006/9/14(木)


 初期大乗経典は一世紀には成立している。しかし、その頃のインドや、その後の中央アジア、また、西域において大乗仏教がどのように展開していったかは定かではない。仏教遺跡の発掘が進んでいないことがその理由の一つであろう。しかし、遺跡そのものがこの地域のイスラム化やモンゴルの進入や、盗掘や砂漠化、さらには最近の戦乱によって荒廃している。また、政治事情によって発掘の作業などが妨げられてきた。

 幸いに、旅行記が参考になる。法顕(337~422年)の『法顕伝』、宋雲(旅の期間 518~521年)の『宋雲行紀』、玄奘(602~664年)の『大唐西域記』、義浄(635~713)の『南海寄帰内法伝』などが残されている。驚くのは、法顕が訪れた五世紀においてもインドではなお小乗仏教(部派仏教)が中心的な勢力であったことである。

 『法顕伝』は五世紀初頭の様子を伝えている。注目すべきは、西域の仏教である。西域とは現在の新疆ウィグル自治区にあたる地域のこととする。西域の仏教も小乗仏教(部派仏教)が大勢を占めていた。西域北道(天山南道)沿いのトルファン(吐魯蕃)、亀茲(きじ)国や疎勒(そろく)国などは小乗仏教の国であった。大乗仏教の国として明言されているのは、西域南道の中心国家、ホータンのみである。鳩摩羅什の出身地の亀茲国も小乗仏教の国であった。