12-04 『南海寄帰内法伝』に見るインド仏教

12-04 『南海寄帰内法伝』に見るインド仏教

2006/11/8(水)


 義浄(635~713?年)は七世紀にインドに求法の旅をした(671~695年)。義浄は帰国後、持ち帰った文献を翻訳した。『金光明経』(こんこうみょうきょう)や『根本説一切有部毘奈耶』(こんぽんせついっさいうぶびなや)などである。『根本説一切有部毘奈耶』は、説一切有部(せついっさいうぶ)に伝えられる戒律文献である。

 義浄は旅行記『南海寄帰内法伝』をのこした。そこに次のような記述がある。

 「その致を考えるに、則ち律検殊ならず。斉しく五篇を制し、通じて四諦を修す。若し菩薩を礼し、大乗経を読むものは、これを名づけて大となし、この事を行ぜざるはこれを号して小となす。」

 大小は言うまでもなく、大乗・小乗の謂で、当時の現状として、大乗も小乗も、五篇よりなる律蔵に関しては共通で、ただ、経を殊にした(したがって経の解釈としての論も)というのである。つまり、大乗仏教は教団としての姿が古代インドでは明瞭でない。事実、大乗仏教は教団を規制する独自の律蔵というものを伝えていない。現に漢訳仏教圏で基本とされる律は『四分律』と呼ばれ、いわゆる小乗の部派の一つ法蔵部のの規定であり、チベットでは『根本説一切有部律』を使用している。

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 義浄より半世紀前に18年もインドに滞在してた玄奘の記録『大唐西域記』では、国ごとの大小乗の教団の現状報告があり、学派、部派の名を示す例99ヵ所のうち、小乗が60ヵ所、大乗上座部5ヵ所、大乗を学ぶ所24ヵ所、大小乗兼学の所15ヵ所と見える。大小乗兼学と大乗だけ学ぶのと、教団としてはどのような区別があったかわからないが、ともかく「大乗経を信奉する」教団の所在地は全体の約4割を占めることが知られるから、律蔵に区別が無いからといって、大乗の教団が存在しなかったことにはならないであろう。このような大乗・小乗・大小乗兼学という教団分布は、大乗の比率こそ少ないが、四世紀末の旅行者、法顕のの記録『仏国記』でも同じである。

 四世紀から七世紀にいたる頃のインド(及び周辺地域)の状況として、大乗経を信奉する集団(僧院、修行者たち)がかなりの数存在していたことは事実として、その人たちがどのように出家し、受戒して教団の一員になったかについての記録が存在しないからである。一つ考えられることは、出家受戒には何れかの部派による以外に方法がなかったのではないかということである。

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 伝記・伝説に従えば、無着・世親の兄弟も、説一切有部において出家したといわれ(『ヴァスバンドウ法師伝』)、あるいは無着は化地部(けじぶ)で出家したとも伝えられている(『西域伝』)。龍樹については、伝記(『龍樹菩薩伝』)による限り、特定の部派の名は伝えられず、

 「山に入り、一仏塔に詣りて出家受戒、九十日中三蔵を誦し尽くして、更に異経を求むるに都て得る処無く、終に雪山に入る。山中に塔有り、塔中に一老比丘有り、大乗(摩訶衍 まかえん)経典を以て之に与う。」

 云々と見える。これによると大乗(摩訶衍)経典を授かったのは、出家受戒したところと別であることだけは明らかである。龍樹が大乗の論師であるのは、その出家受戒の故ではなく、一老比丘から大乗経を学んだことを出発点としている。その一老比丘も当然大乗の修行者であることになるが、かれが山中の塔にひとり住んでいたのか、教団を作っていたのか、あるいはそこに止住していた多くの比丘のひとりであったのかどうか、これだけではわからない。

引用・参照
・高崎直道 『大乗仏教の形成』
  岩波講座・東洋思想第八巻 インド仏教1 岩波書店 p146~