31-32 テーラヴァーダと大乗仏教

31-32 テーラヴァーダと大乗仏教

2006/12/8(金)


■ はじめに

 大乗仏教とテーラヴァーダ仏教の間の対話を考えてみたいと思います。テーラヴァーダ仏教とは、スリランカミャンマーラオス、タイに定着している仏教でありますが、ベトナムは中国文化圏でありまして、そこで定着している仏教は、大乗仏教であります。紀元前三世頃に仏教がスリランカへ導入され、さらに東南アジア各地へ仏教が広まり定着いたしました。一方、大乗仏教は西暦前後頃に起こった一種の宗教改革でありまして、主として中央アジアから中国、朝鮮、日本へと展開いたしました。

 大乗仏教もテーラヴァーダ仏教も、仏教なるが故の共通の要素、例えば三宝帰依などの共通の要素が多いわけです。同時に、両者の実践や生活パターン、信仰生活などの在り方などに大きな差もございます。その差があることが問題なのではありませんで、その差を互いにどう理解しているかが問題なのでありましょう。この問題を二つの面から取り上げてみたい。 一つは宗教レヴェルの受け止め方。もう一つは戒律の理解のあり方でございます。


■ 呪術儀礼

 テーラヴァーダ仏教徒では大乗仏教は呪術儀礼しかない宗教だと多くの人が考えています。特に日本の仏教の天台、密教、浄土信仰、禅、日蓮信仰などの解脱と救済に関わる高次の精神性の思想と教理、実践の伝承が日本に定着していることを全く知らないのであります。一方、日本の仏教徒はテーラヴァーダ仏教の伝承を原始仏教思想を一歩も出ていないし、功徳を積んで救いを来世に求めるだけの宗教ではないかと批判します。戒律は形式主義で、意味を失っている。形だけの仏教だと批判します。そしてテーラヴァーダ仏教に伝承されている高次の瞑想の実践と意味を知ろうとしません。


■ 戒律

 原始仏教、そしてそこから発展したテーラヴァーダ仏教では、出家者はいわゆる比丘戒を受けます。比丘の二百五十戒などと言われるものでございます。ところが、日本、中国、台湾、韓国の大乗仏教では、中国で発展した大乗戒を受けます。比丘戒は原則として受けません。大乗戒という別個の戒を発展させ、それで受戒し出家します。

 ここでは、更に戒(sila・シーラ・disicipline)と律(vinaya・ヴィナヤ・rule)の違いを見なければなりません。戒は、出家者が主体的に自分で判断して正しい思想と行動を選び取る生き方のことです。源語ではシーラ(sila)と言います。

 釈尊、弟子たちも、真実を求めて自ら出家した人たちでありますから、当然、自らは正しい考え方・行為を戒として実践しておりました。しかし、教団が大きくなるにつれて比丘としてしてはならない行為をする比丘も出てまいります。その度に釈尊は、出家比丘はそのようなことをしてはいけないんだと、○○すべからず、という律を制定していきました。それが律(vinaya・ヴィナヤ)と申しますルール(rule)のことでであります。律は規則だから違犯すれば罰則があります。それに対して、戒には罰則がありません。しかし半面に懺悔というものが付き纏います。

 テーラヴァーダ仏教では律を重んじます。東南アジアのテーラヴァーダ仏教が釈尊以来二千数百年たっっても、服装から僧院システム、比丘の生活パターンなど驚くほどの統一を保っているのは律重視のお陰であります。しかし、その反面に形式主義だと大乗仏教徒は批判します。大乗仏教では律ではなくて戒を重視する伝承がございます。自発的に宗教者としての思想と行動を自らに規定する。それを支えるのは求道心(ぐどうしん・真理を求める心)と、自己に誠実に、そして真理に誠実にという誠実さでございます。。

  テーラヴァーダ仏教徒の側は、大乗仏教を比丘戒を受けていないから比丘ではないと言います。特に日本の僧侶に対しては、結婚と飲酒を例にとって厳しく批判いたします。日本の仏教僧侶の結婚と飲酒については、種々に議論があり得るところですが、一つには戒をどう理解するかということと、二つには結婚あるいは飲酒に関わりなく、深い信仰者が出ている伝承を例として、日本の仏教徒は酒と結婚を必ずしも否定していません。これに対して、大乗仏教側はテーラヴァーダ仏教の戒律形式主義を批判して比丘の生活の修行を認めない声が大きい。こういう相互の批判があります。

参照・引用
奈良康明 第19回IAHR(国際宗教学宗教史学会) 2005年3月26日でのレポートより
 http://www.wcrp.or.jp/japan/research_1.html