31-31 平川彰からショペンへ
31-31 平川彰からショペンへ
2006/12/6(水)
インド仏教を教義の歴史としてとらえる見方が主流であった学会の中で、それを僧の歴史と見る新たな方針を打ち出し、偉大な業績を築いたパイオニアが平川彰である。律蔵研究の権威であった平川は、その該博な知識に基づいて、古代インドの仏教僧団における具体的な生活状況をきわめてリアルに描き出した。
しかも驚くべきことに、そういった僧団状況の解明が、大乗仏教の発生起源というきわめて重大な謎を解くための直接に鍵になるということを明確に示したのである。特異な宗教運動として現れてきた大乗仏教を、その担い手たちの活動面からみるという方法は、今にして思えばしごく当然のことのようであるが、これは律という特殊な僧団内文献を自在に利用することのできた平川にしてはじめて可能な仕事だったのである。
平川が確立した大乗仏教の起源に関する画期的な説は、その後数十年間にわたって定説とされてきた。しかしながら、近年、多方面から、これに疑義を呈する研究が現れてきている。このような新たな動きの起点になったのが、アメリカのグレゴリー・ショペンによる研究である。
平川は、律という、三宝でいえば僧に属すると考えられる文献を用いることによって、それまで知られていなかった古代仏教僧団の生活状況を総合的に把握し、それを基盤として大乗の起源の問題に挑んだ。それに対し、ショペンは、碑文からこの問題に迫ったのである。
インドには無数の碑文が残っており、その中にはもちろん仏教に関わるものも多い。しかしそれらは個々別々の状況で発見され、研究され、発表されてきたため、それらを有機的に結びつけて統一的な理論を作るという作業は行われてこなかった。ショペンはそれを行い、それまでの文献研究では分からなかった仏教世界の別の一面を世に知らしめたのである。そこには建前ばかりを強調する教義書には現れない、人間集団としての仏教の有様が生き生きとした姿で浮かび上がってくる。
しかも、平川が律の研究から出発して大乗の起源へと踏み入った過程をなぞるかのように、ショペンもまた、碑文の研究から大乗の問題へと切り込んでいる。そしてそれが平川説が抱える問題点を明確にし、その後に続く平川説批判の嚆矢ともなったのである。
碑文を用いたショペンの研究成果の一部を挙げておく。
(1) 従来、大乗仏教の特質と考えられていた仏塔崇拝が必ずしも大乗特有の現象ではなく、それ以前の伝統的部派仏教ですでに盛んであったことを指摘した。大乗仏教の特質は仏塔崇拝ではなく、むしろ経典崇拝にある。また、回向の思想もすでに伝統的部派仏教の中に存在していた。
(2) 種々の大乗経典が作られ始めた紀元数世紀の頃、大乗教団は独立した教団を形成しておらず、それは伝統的部派教団の中のグループとして活動していたにすぎない。それをあたかも大乗仏教が従来の既存仏教押しのけて主流となったかのようにとらえるのは、中国の状況に影響された研究者の偏見である。
(3) 従来、仏教の孝行思想は中国で成立したという意識が強かったが、インド碑文によって、それがインド仏教全般に広く浸透していたものであり、しかもその主体となったのは在家者よりむしろ出家者であったという点が明らかになる。
(4) 仏塔崇拝の並行現象であるブッダの遺骨崇拝は大乗発生以前の古い時代から行われていた。そこにおけるブッダの遺骨とは、生きたブッダそのものを象徴していたのである。この儀礼と同時にインド各地の僧団では死んだ出家者の葬送と塔供養も行われていた。