32-26 阿弥陀仏の西漸

32-26 阿弥陀仏の西漸

2006/9/1(金)


 阿弥陀仏像と観音菩薩像は中国で制作された。その後西域に西漸した。このように書くと驚く人もいるだろう。仏教はインドから中国へ伝えられた。ガンダーラなどの西北インドも含めてインドを考えれば、仏教は東漸したといえる。しかし、阿弥陀如来像や観音菩薩像などの大乗の仏像に関する限り、少し異なった動きをしているように思われる。

 仏像はガンダーラやマトゥーラでつくられ始めた。一世紀に入った頃である。丁度大乗仏教もこの時期に興起した。しかし、大乗仏教の興起と仏像制作の始まりとは無関係である。仏像と大乗仏教は中国で結びついた。
 
 中国では初めから大乗仏教が優勢であったのではない。鳩摩羅什が、401年に後秦の姚興に迎えられて長安に入るまでは小乗仏教も優勢であった。鳩摩羅什の入京を待っていた道安などは小乗仏教に傾いていた。大乗仏教が中国で主流となったのは、鳩摩羅什の訳業に負うところが大きい。鳩摩羅什般若経典などの大乗の諸経典にとどまらず、龍樹の『中論』や『十二門論』などの論書も訳している。また、阿弥陀経に深い理解を示していた。その後、天台智顗が出て、大乗仏教化は決定的となった。

 西域の仏教は、大乗仏教一色になっていたのではない。西域南道のホータンなどでは大乗が優勢であったが、西域北道(天山南路)のクチャあたりでは小乗仏教が主流であった。玄奘の『大唐西域記』や寺院の遺跡から判断できる。これらの地域に仏教が伝わった頃はクシャン朝において小乗の部派仏教が主流であった。

 大乗仏教の登場と発展はミステリアスである。龍樹の竜宮伝説、世親の伝説、華厳経の伝説などは大乗の経典について不思議な記述をしている。経典が龍宮に隠されていたというのである。龍樹の登場の意味はそれまで成立していた大乗の初期の経典と大乗仏教に市民権を与えたことである。龍樹が登場しなければ大乗仏教の運動は日の目を見なかったかもしれない。

 世親の伝説にしても、中期の大乗仏教も難産を強いられたようである。世親の出身は説一切有部である。やはり、大乗の経典は隠されていた、といえる。とにかく世親の登場で中期の大乗仏教典も日の目を見ることができ。、ここにようやく大乗は小乗と並ぶ存在となったのである。