32-05 『道行般若経』と仏像

32-05 『道行般若経』と仏像

2006/7/21(金)


 梶山雄一氏は、ここでは、『八千頌般若経』の成立時期を問題としている。『道行般若経』の原本であった当時のサンスクリット語の『八千頌般若経』にはいまだ仏像に関する表現がないとすれば、『八千頌般若経』のもっとも古い形の成立時期は、仏像の登場以前に遡ることができる、という結論を導き出している。

 しかし、この古形の『八千頌般若経』と支婁迦讖(しるかせん)訳の漢訳の『道行般若経』との相違はもっと重要な問題を含んでいるように思われる。支婁迦讖はなぜ、このような「誤訳」を敢てしたのか。一つ、考えられるのは、安世高(あんせいこう)の存在であろう。安世高はパルティア出身の渡来僧、支婁迦讖はクシャン朝出身の渡来僧。いずれもほぼ同じ時期に経典の漢訳に従事した。

 安世高の安は安息国(パルティア)の人であることを示す。西アジアにあった安息国の皇太子の地位を捨てて阿毘達磨(アビダルマ)を学び、147年に洛陽に入る。『大安般守意経』、『陰持入経』、『人本欲生経』、『四諦経』、『道地経』、『転法輪経』、『八正道経』など20余年の間に34部40巻を訳出したといわれる。いずれも小乗仏教(部派仏教)に属するものである。

 このうち、『大安般守意経』、『陰持入経』、『道地経』はいずれも禅観に関する本である。『道地経』の止観は天台の『摩訶止観』に影響を及ぼしたとの説もある。『大安般守意経』は「入息出息法」について述べている。漢の政治が不安定になるなか道教が勃興してきたなかで、これらの経典は歓迎されたのではないか。

 支婁迦讖の支は大月氏の人であることを示す。安世高よりやや遅れて洛陽に入った。初めて大乗経典を漢訳した。『道行般若経』、『般舟三昧経』、『首楞厳経』など初期大乗経典十四部を漢訳した。支婁迦讖はこの漢訳にあたって、見事な「誤訳」をやってのけた。

 支婁迦讖は、安世高の禅観経典が受け入れられたのを見ていたにちがいない。しかし、支婁迦讖には禅観に関する経典はなかった。また、当時の中国においては仏像と仏教の結びつきは当然の前提であった。そこで行ったのが『般舟三昧経』にあわせて、『道行般若経』を誤訳することによって、安世高に対して「般舟三昧」という、大乗の禅観法を対置したのではないか。

 鳩摩羅什は、この事情がよく分っていたようである。支婁迦讖の意図を見事に見抜いて踏襲し、完成させた。更にいくつかの禅観経典を作り出した。中国仏教はこの二人の「天才」によって、大乗仏教の教義、禅観法、戒律が整えられ、大乗仏教と仏像が結合し、大乗の教団、大乗の仏教美術を作り出した。この二人の天才は、インドや西域では辺境にしか存在し得なかった大乗仏教を中国で定着させ、花を開かせることに成功したのである。