11-10 『道行般若経』 と仏像

11-10 『道行般若経』 と仏像

 

■ はじめに

 「般若経」というのは単一の経典ではなく、同一の系統に属する多数の経典の総称である。多くの大部の「般若経」のうちで『八千頌般若経』がもっとも早い時期に成立している。しかし、『八千頌般若経』の現存サンスクリット本は七~八世紀に現形を得たものであり、支婁迦識(しるかせん)が179年に『道行般若経』という名のもとに漢訳したもののほうが、『八千頌』の現存サンスクリット本より古い形を残している。

 この『道行般若経』の原典であったサンスクリット本はいったいいつごろ成立したものであろうか。『道行般若経』の次の二カ所の文章は、仏像の存在を前提にしているかのようである。

 以下に引用した文は、仏像の制作と『八千頌般若経』の原型の先後関係を問題にしている。しかし、この結論のように、『八千頌般若経』の原型が仏像制作に先立っていたとすれば、大乗仏教の興起は、仏像の制作と関係がなかったということができるはずである。さらに、本来関係がなかった仏像と大乗仏教を結びつけたのは、支婁迦讖であり、それは中国でなされたことである、ということになる。私にとってはこのことがより重要なテーマと考える。


■ 『道行般若経』の二カ所の文章

1.『道行般若経』の「曇無竭娼菩薩品第二十九」には次のような文章がある。
 
 (ダルモードガタ菩薩がいう。)「たとえば、ブッダが完全に涅槃されたのちにある人が『仏の形像』を作るとしよう。ひとは仏の形像を見てひざまずいて拝み、供養しないものはいない。その像は端正ですぐれた形相をもっていて、(ほんとうの)ブッダと少しも異っていない。ひとはみなそれを見て歎称し、花や香やいろどった絹をもって供養する。賢者(サダープラルディタ)よ。仏という神が像のなかにあるだろうか。」
 サタープラディタ菩薩は答えていう。「像中にはございません。仏像を作る理由は、ただひとにその福徳を得させるだけのことです・・・・・・ブッダが完全に涅槃されたのちに、ブッダを念ずるために像を作ります。世間のひとにそれを供養してその福徳を得させようと思うからです。」(「大正大蔵経」第八巻四七六)

 仏像の起源については、「最初の仏像が出現するに至った時期については、もちろん決定的なことはいえないが、ガンターラの場合は第一クシャーン朝支配の前期、凡そ西紀後一世紀の末葉からであったと推定され、これに対してマトゥラーでは、その最も早い仏伝図も後二世紀の初頭より以前には遡り得なかったと見られる」という高田修氏の名著「仏像の起源」(415頁)の帰結が、もっとも権威あるものとして認められている。

 高田修氏自身、さらに塚本善隆、平川彰、静谷正雄氏など、初期大乗仏教の権威ある研究者たちは主として前記の文章をとりあげて、『道行般若経』の成立を仏像発生後においておられる。静谷氏は後100~125年をそれにあてておられる。

2.また高田氏はもう一つの点にも注目している。

 『道行般若経』の「薩陀波倫菩薩品第二十八」に、サダープラルディタ菩薩が「(悉)見十方諸仏三昧」を得た、と出ているが(「大正大蔵経」第八巻四七二Aおよび四七三C)、悉見十方諸仏三昧とは現在の十方諸仏をまのあたりに見る瞑想、つまり「般舟三昧」にほかならない。 したがって『道行般若経』は『般舟三昧経』と関係がある。

 ところが、『般舟三昧経』には、般舟三昧をすみやかに得る四つの方法を列挙し、その第一に「一には仏の形像を作り、もしくは画を作る」ことをあげている。つまり、『般舟三昧経」は仏像発生後に書かれたものである。そしてこの経典(の存在)を予想する『道行般若経』も同じ時代に成立した、という趣旨を高田氏は語っておられる(『仏像の起源』428頁)。このようにわが国における最近の研究は、『道行般若経』、そしてその原典である『八千頌般若経』の成立を西紀後二世紀にまで下げようとする傾向が強い。


■ 結論

 しかしこの点について疑問がないわけではない。上記の問題の二カ所は『道行般若経』にある「サダープラルディタとアィタとダルモードガタ」の物語のなかに出てくる。『八千頌』サンスクリット本ではこの物語は第三十、三十一章にあたるが、そこには仏像に関するさきの文章は出てこないし、悉見十方諸仏三昧という「三昧」も記されていない。『八千頌』のチベット訳にも、羅什および施護による『八千頌』の漢訳にも、それらの記述は存在しない(曇摩蝉・竺仏念共訳、玄奘訳にはこの物語全体が省略されている)。つまりその二つの記述は支婁迦讖訳にしか見えないのである。

 『八千頌』のもう一つの漢訳である、支謙訳『大明度経』には二つの記述はあるけれども、この漢訳の年代(222~228)と性質からみると、それはおそらく支婁迦讖訳に影響されたものであろう。仏像や悉見十方諸仏三昧の記述がもと『八千頌』原典にあったのが、現存『八千頌』サンスクリット本およびチベット訳、羅什訳、施護訳などでは脱落し、支婁迦識訳(および支謙訳)にだけ残ったというようには考えにくい。経典というものは時代とともに拡大増広される傾向をもっていて、もと存在した文章が削除されるということはほとんどない。したがって、われわれはむしろ、この記述はサンスクリット原典にはなかったのに、何かの都合で支婁迦讖が漢訳にさいして挿入した、と考えるべきであろう。

 中国仏教は仏像の輸入とともに始まり、初期の中国仏教は仏像崇拝の仏教とさえいえる。支婁迦讖はその中国の風潮に乗じ、自分がかつて中央アジアで見た仏像信仰のことを思い出して、仏像のことを訳文に挿入したのであろう。

 『八千頌』サンスクリット本では、サダープラルディタが「東のほうへ行きなさい」という「空中の声」を聞いたあとで、どこまで行ったらよいかをその声に聞かなかったことを悔み、悩んでいるときに如来の姿が立ちあらわれて、五百ヨージャナ東へ行ったところにあるガンダヴァティー市のダルモードガタ菩薩のところへ行って教えを聞けと指示する。それを聞いたサダープラルディタは歓喜して数多くの瞑想に入る。『八千頌』サンスクリット本はここで六十二種の三昧の名を列挙するが、『道行般若経』はそれをあげないかわりに「見十方諸仏三昧を得た」とのみ書いているのである。

 もう一度はサダープラルディタがダルモードガタに会って、自分が如来の姿を見て瞑想に入った経験を報告するところに「悉見十方諸仏三昧を得た」の語が出るが、『八千頌』サンスクリット本では「私に多数の精神集中の門戸(三昧門)が顕現したのです」とある。もっとも、サンスクリット本でも、六十二種の三昧を列挙したあとで、サダープラルディタが「これらの精神集中の状態に入っているあいだに、十方の世界において菩薩大士たちのためにこの知恵の完成(般若波羅蜜)を説き明かしている、無量、無数の諸仏世尊にまみえたのである」という文章はあるし、またダルモードガタへその経験を報告するなかにも「私を十方の世界に慈します諸仏世尊が・・・・・・励まし、ほめてくださいました」とある。けれども、瞑想において十方世界の諸仏を見た、ということをただちに悉見十方諸仏三昧、すなわち般舟三昧という名の三昧と同一視することはできないであろう。

 次節以下に述べるように、同じ光景は『八千頌』にしばしばあらわれるからである。むしろ、『八千頌』のこの記述をもとにして、のちに、般舟三昧という名が生まれ、『般舟三昧経』が書かれるようになった、と考えるほうが自然であるからである。

 『八千頌』は現存サンスクリット本で三十二章(『道行般若経』で三十章)から成るが、その第二十八章「アヴァキールナ・クスマ如来」『道行般若経』では「累教品第二十五」)に、ブッダが、知恵の完成を宣布し、永続させるために、この経をアーナンダに委託し、委嘱する記述がある。この委託は一つの経典の最後の章に出るのがふつうである。したがって『八千頌』はいったんここで完結し、それ以後の数章はのちになって追加され、そして第三十二章「委託」をあらためてもう一度つけ加えたものであろう。「サタープラルディタとタルモードガタ」の物語もその追加分のうちに入る。したがって『八千頌』の第二十八章までの成立は現存本よりもさらに古いことになる。またその古形の『八千頌』のなかでも、より早く成立した部分と比較的のちに成立した部分があるとも考えられる。

 さきに論じたように、「サダープラルディタとダルモードガタ」の部分(第三十~三十一章)も仏像発生後の成立と断定はできない。そして第一~二十八章の古形の部分はさらに時代を遡るから、仏像発生(後一世紀末葉)や『般舟三昧経』よりも前であろう。こうしてみると、『八千頌』の原型は西紀前後から後一世紀中葉までのあいだに成立した、と考えてよいのではなかろうか。

引用・参照
・梶山雄一 『般若経』 中公新書 P79