11-09 『金剛般若経』の見仏聞法

11-09 『金剛般若経』の見仏聞法

 

 『金剛般若経』は『八千頌般若経』と並んで、最初期の般若経典である。『金剛般若経』の残存する漢訳は、『金剛般若波羅蜜経』(鳩摩羅什訳 402年)、『能断金剛般若波羅蜜多経』(玄奘訳 648年)ほか計五本である。この経は「空」を説く般若教典の中で「空」という用語が使われていないため、最古層に編纂されたものと考えられている。

 「空」という言葉は使わないが、逆説的表現を多用して内容は徹底した空観に貫かれている。『金剛般若経』の中から、見仏聞法(けんぶつもんぽう)に関すると思われる部分を探してみた。しかし、今、読み返してみると、仏身論のようでもある。ただ、こうした考え方と仏像の制作は相反するものであろうと思われる。


 須菩提。於意云何。可以三十二相観如來不。
 須菩提言。如是如是。以三十二相觀如來。
 佛言。須菩提。若以三十二相觀如來者。轉輪聖王則是如來。
 須菩提白佛言。世尊。如我解佛所説義。
 不應以三十二相觀如來。 
  爾時世尊而説偈言。
   若以色見我 以音聲求我
   是人行邪道 不能見如來


「スプーティよ。どう思うか。如来は特徴をそなえたものであると見るべきであろうか」。

 スプーティは答えた。
「師よ。そうではありません。私が師の仰せられた言葉の意味を理解しているところによると、如来は特徴をそなえたもにであるとは見てはならないのです」。

 師は言われた。
「まことに、まことに、スプーティよ。そのとおりだ。スプーティよ。あなたの言うとおり、そのとおりだ。如来は特徴をそなえあたものであると見てはならないのだ。それはなぜかというと、スプーティよ。もしも、如来が特徴をそなえたものであると見られるようでならば、転輪聖王もまた如来であるということになるだろう。それだから、如来は特徴をそなえたものであると見てはならないのだ」。

 スプーティ長老は、師に向かって次のように言った。
「師よ。私が師の仰せられた言葉の意義を究めたところによると、如来は特徴をそなえたものであると見てはならないのです」。

 さて、師は、この折に、次のような詩を歌われた。
  かたちによって、私を見、
  声によって、私を求めるものは、
  まちがった努力にふけるもの、
  かの人たちは、私を見ないのだ。

参照・引用
・中村 元 現代語訳大乗仏典1 『般若経典』 東京書籍 p279~