12-03 「戒律」の考え方

12-03 「戒律」の考え方

2006/11/6(月)


 四世紀末、戒律は、道安などによって翻訳されたものがあったとはいえ、まだまだ不足しており、戒律の実践も極めて不完全であった。そこで、こうした状況を嘆じた東晋(317~420年)の僧法顕(337?~422?年)は、経と律とを求めてインドへと求法の旅に出た。同じ頃、法顕のほかにも幾人かの僧がインドを訪れている。この頃から、中国人がインドに行き、実際にインド仏教に触れ、あるいはインドから中国に仏教を直輸入するようになった。

 法顕が律を得て帰国した頃には、中国でも鳩摩羅什(350~409年)によって経や律の翻訳作業が進められていた。鳩摩羅什によって翻訳された律と、法顕によって中国に持ち込まれた律によって、戒律の実践、僧伽の運営や修行方法に対する理解が進んだ。

 ただ、律の実行には限界があった。律の研究者は多くあったが、完全な実践者はほとんどいなかった。たとえば、僧は三衣一鉢のみを持ち、粗末な袈裟を片肌脱ぎで着するのみであると定められているが、これは礼教を重んじる中国では受け入れがたいことであった。戒律を生み出したインドと中国の間の環境・文化の差は大きく、中国社会の中にあって戒律をきちんと実践しきることは、まず不可能である。戒律の文字どおりの実践は、僧として当然ことと認められていたのではなく、ただ形式のみのものとみなされていたのである。

参照・引用
・田中愛子『中国仏教史』  
 http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2001/011221.html


 中国仏教と戒律の移入に関する理解は概ね、上記のようなところであった。しかし、中国仏教にとってはさらに困難な問題が横たわっていた。鳩摩羅什の後、中国仏教は大乗仏教となった。ところが、インドでは、大乗仏教教団が成立したことはなく、従って、中国仏教が探しもとめた「大乗戒」というものはどこにもないものであった。