12-02 道安と戒律・禅観法

12-02 道安と戒律・禅観法

2006/10/25(水)


 前秦(351~394年)の符堅(在位357~385年)の命を受けた将軍呂光(りょこう)が西域のオアシス国家亀茲国(きじこく)を攻め、鳩摩羅什(くまらじゅう 344~413年)を確保したのが386年。しかし、そのとき、前秦は淝水の戦い(382年)で東晋に敗北し、すでに滅びていた。呂光は河西回廊のオアシス都市のひとつ武威(ぶい)にとどまって前涼を起こした。羅什もそこにとどめおかれた。

 前秦の都長安で、鳩摩羅什がやってくるのをひたすら待ち続けていた僧がいる。道安(どうあん 314~385年)である。西域で名を馳せていた羅什の召致を符堅に進言したのは道安だといわれている。道安もまた、符堅によって、379年、湖北省の襄陽(じょうよう)から連れてこられたのである。当時の高僧は、いわば政治顧問の役割も期待されていたのだ。

 羅什が長安に来たのは401年。道安はすでに亡くなっていた。その遺志を継いだのが門下の僧叡(そうえい)である。僧叡は道安の志を継いで羅什に要請したのは、「禅定の手引書の訳出」であった。「古来、仏教においては、戒律を守ることによって行いを正し、禅定の実践によって心を静め、真実をありのままに知る知恵を得ていくという、いわゆる戒・定・恵(かい・じょう・え)の三学が、修行の大筋だとされてきた。」。僧叡の求めに応じて羅什が編纂・訳出した禅経が『坐禅三昧経』三巻である。

 ここで、道安に触れておくこととする。道安は十二歳で出家し、仏図澄(ぶっとちょう)に師事した。後趙(こうちょう 319~351)の石勒(せきろく)に請われて長安華林園に入った。その後、後趙および前燕の兵乱を避けて、慧遠(えおん)ら同学の五百余人とともに南下し、襄陽に住した。江北を統一した前秦の苻堅(ふけん)は、395年に十万の兵をもって襄陽を攻め、道安を捕えて長安に迎え、五重寺に住せしめた。

 道安は、訳経を研究し、序や註釈をつけるなどするほか、経典研究に欠かせない経録(経典の目録)を制作した。翻訳僧たちが思い思いに経典の漢訳を行ったため、漢訳経典は全く未整理の状態であった。彼は、経典を体系的に整理し、訳経の序や註釈、経典の訳時、訳者等を記録した。これが、中国最初の経録である『綜理衆経目録』である。

 また、道安は、戒律を重要視していた。彼は、新訳の律部を研究し、受戒の法を整備した結果、「僧尼規範」等の僧制を制定した。その内容は、
 1.行香・定座・上講経・上講の法
 2.常日六時行道飲食唱時の法
 3.布薩差使悔過等の法
 である。

 こうした道安の活動は、この少し後、羅什によって新しい経典翻訳が行われた時代の、仏教の飛躍的発展の下地となった。

参照・引用
・田中愛子『中国仏教史』京都大学歴史研究会のサイト所収